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遊びと仕事の境界線を曖昧にした方が幸せになれる

「仕事を遊びに、遊びを仕事に」は建前なのでしょうか

仕事柄かもしれませんが、「遊びと仕事の境界線が曖昧だな」と感じます。もっとストレートな言い方をすると「仕事を遊びに、遊びを仕事に」というアプローチを無意識にしています。

こういうことを書くと「ふざけたことを言うな」と年配者(僕もそうなんだけどね)からお叱りを受けそうですね。もちろん、楽をして遊んでばかりではなく、たいへんなことの方が多いのが事実です。でもそう思っています。

遊びと仕事の違いは「自由度」と「生産性」の二つです

「遊びも仕事、仕事も遊び」とはどういうことなのでしょうか。仕事はイメージしやすいけど、そもそも遊びとは何でしょうか。遊びには「心を満足する」「気持ちが安らぐ」あるいは「高揚する」といった要素があります

とくに大事なのは「遊びには自由がある」ことです。自分でやることを選べ、飽きたら自分の意思でやめられるのが遊びです。仲間との遊びは別として特別な責任も発生しません。ここが仕事と大きく異なるところです。

もう一つ仕事と違う点は、生産的ではないこと、もっというとお金にならなくても遊びはOKです。でも、仕事に求められるのは経済性。数字で明確化され、より多くが一般的です。だから仕事にはプレッシャーが付き物です。

「好き勝手にやりたい放題にできる」という仕事環境

遊びと仕事の違いは「自由の有無」と「生産性の有無」にあります。僕は経営者だから、ある程度自由に仕事を選べます。誰かに指示されて嫌々しなければならないこともそう多くはありません(仕事の苦しみは別次元ね)。

でも、一般的には社員は自由度が少なく、指示を受けて動かざるを得ません。だったら、社員もできる限り自由に仕事が選べて、自分の裁量で進められるような環境や条件を整えれば、仕事も遊びになりませんかね。

「好き勝手にやりたい放題になる」という危惧を抱く人もいるかもしれません。でも、目指すものを共有し、達成方法が仕組みになっていればそうはなりません。むしろ「好き勝手にやりたい放題」が成果の後押しとなります。

人は幸せを感じると、何かで応えようとします 

もう一つの生産性はこう考えます。遊びは非生産的で、それを求めると遊びでなくなると思っている人が多い。同時に、遊びのように働いて、お金が入ってきたらいいなあとも思っているはず。だったら、そうした方がいい。

「仕事がつくり出す幸せ」について時々考えます。自分が関わることで相手が幸せを感じる、すると、関わった自分も幸せを感じる。幸せを「役に立つ」に置き換えてもいいかもしれません。この相関関係が大事だと思います。

人は幸せを感じると、何かで応えようとします。感謝の言葉やお礼の品物かもしれません。それがお金になると、否定的な意見が出てきます。お金が見返りになるのはいやらしいという感情です。でも、本当にそうなのかなあ。

どんな辛くても大変でも、遊びと感じられることが大事

仕事の対価はやっていただいたことへの満足感から判断されます。よかったと思うから、納得してお金を払うわけです。これって映画でも同じこと、ああ良かったなあと思うと、支払ったお金は惜しくはありません。

遊びのようだけど「誰かの役に立つ、幸せにつながる」仕事ならば、そこにお金が発生してもまったく違和感はないんじゃあないかなあ。ただし、相手が心からそう感じなければ「ふざけるな、遊びじゃないんだぞ」と叱責されます。

「遊びを仕事に、仕事を遊ぶ」にするのは生半可ではできません。どんな辛いことや大変なことでも「困難」ではなく「遊び」と感じられるくらい没頭できるもの、これがなければやめたがいい・・・これが結論かもしれません。


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