田中一村の作品を観ながら、頭のなかではボレロが流れていた
先日、東京都美術館で開催中の『田中一村展』に行ってきた。「神童」と呼ばれた幼少期から、終焉の地である奄美で描かれた最晩年の作品までを一堂に集めた大回顧展だ。会場で作品に圧倒された。まさに魂の絵画だ。
幼少期から輝かしい将来を約束されたかのように見えるが、その人生は世俗的な栄光とは無縁だった。過去を断ち切るように、50歳で単身奄美に移り住み、紬工場で染色工として働きながら、亜熱帯の動植物を描き続けた。
実は2006年に奄美に仕事で行った際に、田中一村記念美術館を訪問した。飛行機で羽田に戻る前だったので、1時間ほどしかなかったが、立ち寄った。存在は知っていたが、作品を観たのはこのときが初めてだった。
本展で知ったが、奄美に出立する前に、一村は千葉市千葉寺町で暮らしていた。1938年からおよそ20年間だ。暮らしは貧しかったが、豊かな自然が広がる農村地帯とそこで暮らす人々を描いた作品が多く残っている。
1947年に画号を「一村」に変え、ヤマボウシを描いた『白い花』という作品が実に良い。千葉市にはかみさんの実家があり、千葉寺周辺もある程度は知っている。当たり前だが、作品に描かれた当時の面影はまったくない。
一村は1908年に生まれ、1977年に69歳の生涯を終える。並外れた画才を持ちながら、その人生は順風満帆ではなかった。作品を観ながら、頭のなかで流れていたのは、なぜかモーリス・ラヴェルの『ボレロ』だった。
15〜16分程度の楽曲だが、最初から最後まで同じリズムが繰り返される。2種類の旋律は単調のようだが、徐々に豊かな表情を見せていく。そして最後の2小節で突然転調し、きっぱりと潔く終わる。
尽きることのない描きたいという思い、画壇から評価されないことへの苦渋、それでも自然や人々に向けかれる眼差し、そして奄美で渾身の力で描いた作品の数々、田中一村は無名のままで没したが、潔い人生だったと思う。