塩原高尾太夫のこと
40歳台の頃は毎週のように東京の街歩きをしていた。初秋のある晴れた日に日本橋中洲辺りから清洲橋を渡ると、隅田川の水がたっぷりとして淀むような「三叉」という合流点が左手に開けて来る。
川筋に沿って南に歩くと朱色の小さな神社がポツンとビルの隅に建っており、気になって祭神は誰だろうと説明板を読むと「塩原高尾太夫」で、それも彼女の頭蓋骨が中に納まっていると云う。
「塩原?」と云う文字と「髑髏!」と云う棘々しいイメージに心が震えながら、神社の由来に記されたその出来事に一寸衝撃を受けた。
振袖火事と云われる明暦の大火(1657
年)の後、現在の人形町に在った吉原遊廓は浅草田圃の新吉原に移転する。装い新たな吉原で大楼三浦屋の最頂点に立つ二代目遊妓高尾太夫が、和歌も書も茶も伎芸も全て群を抜く才と優美さを誇り、器量も息を呑む美しさであったと云う。
出自は下野(栃木県)塩原村塩釜で、寛永18年(1641年)母の「はる」と父の長助の長女として「あき」は生まれた。父が病弱で赤貧の中で幼少時代を送り、幼いながら川原で取れる木の葉の化石を湯治客に土産として売って家の日銭の足しにしていたと云う。
8歳の時に湯治に来ていた水戸の妓楼の主人が偶々化石を売りに来た「あき」の可愛らしさと頭の回転の良さに天性の才と器量を見抜き、宿の主人と古刹の「妙雲寺」住職と掛け合い、「大店である江戸の三浦屋なら子供がおらず養子としての身請けができるだろう」と云うことで斡旋役となり、父母を説得し江戸に連れて行ったという。
370年前の話なので真偽は確かめようが無いが、あり得る話ではあると思う。
この古刹「妙雲寺」は鎌倉時代の創建の臨済宗の禅寺で塩原門前町の中心に在る。明治以降多くの文豪・文士が立ち寄っており、佇まいが品良く落ち着いている。元々は平重盛(清盛の長男で力量や見識があったが清盛に先立って亡くなった)の妹が平家敗北の後にこの地に落ちのびて庵を結び「妙雲尼」と称したことから始まったと云う。
実は「あき」には「門太」と云う弟がおり、長じて絵師となり「普門」と号して妙雲寺にその「涅槃図」が残されている。その子孫とされる「太七」が文政8年(1825年)に福島に移住し、いわき市渡辺町上釜戸に馬上家(とのえけ)として今も栄えているらしい。
現在「塩原もの語り館」の企画展に出品されている塩原高尾太夫の遺品である硯箱、櫛笥、小袖や和歌や書の手習い跡の自筆の草紙などは、その馬上家から寄贈されたものとの事であった。
草紙の筆跡は流麗で崩しも整った清潔感があり、たぶん凛として気丈な性質と賢さを持っていた女性だったと想像が膨らむ。
さて、江戸に出た8歳の「あき」は三浦屋四郎左衛門の養女として習練を積み、知性や品性に磨きを掛けて16歳に成長した時、明暦3年1月18日(1657年)に江戸を焼き尽くす明暦の大火が起きる。
三浦屋も全焼し浅草田圃に移転した先である新吉原での再興は難儀を窮めることとなった。
「あき」は再興に資するため、自ら恩返しとして献身の意を固めて知性と美貌と優雅さを発揮し得る二代目高尾太夫を襲名した。「塩原高尾太夫」として僅か2年の間、他を圧倒する存在として有名になり、11代続いたと云われる歴代高尾太夫の最高峰として後代の浄瑠璃や歌舞伎、講談、書籍に登場し伝説となった。
しかし肺疾患(結核?)のため離籍し、浅草山谷の三浦屋別荘で療養していたが、万治元年12月5日(1659年)に
「 寒風に もろくも くつる 紅葉かな」
の句を遺して19歳で亡くなったと云う。
塩原のあの秋の紅葉を瞼に浮かべながら万感の想いを残して逝った「あき」の努力と夢と悲しみが360年の時を経ても切々と伝わって来て私のこころを揺さぶってやまない。
「転誉妙身信女」と戒名され、浅草の春慶院に葬られた。
極めて短い間(2年弱)であったが、比類無い才色兼備の故に「高尾ざんげ」「紺屋高尾」「仙台高尾」など名作芸能の主役に擬せられたため諸説・異説を生んだと云う趣旨の顕彰墓碑が塩原の妙雲寺にもある。
さて、そこで疑問が生じる。
日本橋箱崎にある高尾神社に奉られている塩原高尾太夫とその由来や頭蓋骨はどう説明出来るのだろうか。
一説によると、塩原高尾にぞっこんになってしまった伊達仙台藩の三代目主君の伊達綱宗が4000両で塩原太夫を側室に身請けしたが、太夫が他に想い人ありとして心を開かなかったため、逆上して隅田川舟の上で吊るし斬りにしてしまったと云う。惨殺された太夫の体は川に投げ込まれ、後日岸に流れ着いた首が太夫と分かり憐れと思った民が神として祭ったと云う。1660年に良く理由が分からずに幕命で隠居させられた綱宗が吉原で遊興していたと云う話から作られた伝説とされている。
しかし僅か2年弱で大評判の太夫が離籍し姿が見えなくなるというのは当時の人でさえ不可思議に思えただろう。
実は綱宗に思い止まらせようとした家臣達が塩原太夫をバラバラに惨殺し川に投げ入れ身許不詳とし、三浦屋には病で引退と云うことにさせて大金を渡し口封じをしたとも考えられる。
このような裏話は当時の庶民もある程度分かっていたが、やはり塩原太夫のウワサは厳禁とされ、「もの語り」で太夫への憧れと悲哀を後世に残したのかもしれない。
でも私は結核で朽ちて行く紅葉の塩原太夫こと「あき」の静かな最後を信じたい。
唐突だが、「平塚らいてふ」こと「平塚明(はる)」が、1908年に起こした夏目漱石門下の森田草平との「塩原心中未遂事件」が、何故塩原なのか?
平塚らいてふは1912年に「吉原登楼事件」なるものも起こしている。
籍を入れない事実婚で2人の子供を得た相手が「画家」の奥村博史であったと云う事が妙に気になる。
塩原太夫と平塚らいてふ、つまり「あき」と「明(はる)」に共通な何かを感じるのは思い過ごしだろうか……。
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