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【小説】水族館オリジン 6

chapter VI: 村のお地蔵さん

「お地蔵さんて呼んだらしつれいかしら」

ときどき崇くんは突然こんなふうに女ことばで質問します。

なんのこと?

「いやね、水族館のパートの坂口さんとこ、おじいちゃんいるでしょ、知ってる?」

もちろん知っています。私が高校生のころからずっと寝たきりです。寝たきりといってもどこか具合が悪いというのではなく、単純にお歳なのです。もうハンドレットをゆうに過ぎていらっしゃる。
百をすぎて有余年。
村の最長老でいらして、村の要。
集落には要になる人が必要です、いろんな意味で。
五日眠っては一日起きて、という具合でありながらみんなの安心の要を担ってる。お年寄りがいるというのは、無条件に敬う対象があるということで、私たちは安心をもらっているのです。

さて崇くんは、そのはなし、どこへ連れていこうとしているのでしょう。

「仕事の帰りに寄ったのね。
坂口さんが、家の水槽の具合が悪いって、言っていたから。
それでね、お邪魔したんだよ」

今日の晩御飯は、仕事帰りに図書館の町の総菜屋で調達した鉄板焼きです。
西から小舟に乗ってきた人たちが住み着いて始まったこの村では、ずうっとまえから豚ホルモンを鉄板で焼いて食べてきました。余りものを、流木のたき火の上に鉄板をわたして焼いたのが始まりらしいですけど。もう今は、本当がどうだったのかわからないくらい進化して、それぞれの家庭で違うものになっています。
でもやっぱりわたしは甘辛いたれで野菜と一緒に焼いた惣菜屋のホルモンが一番好き。
焼酎にもよく合います。

仕事のカバンの中の、ボロボロになった中原中也の本の陰にすべり込んだホルモンの袋をひっぱりだしながら、話のつづきに耳を傾けます。
ダブルタスク。慎重に、慎重に。
ビニール袋が破れたら悲劇ですからね。

「そしたら大盛況でね」

どこが? 近くにお店とか、あったかしら。

「坂口さんち。みんな並んでまっているんだよ、おじいちゃんと話すのを」

え?
初耳でした。
だって、眠ってらっしゃるでしょ。話せないじゃない!?

「そうだけど、みんな勝手に話していくの。息子の嫁がどうだとか、いなくなった犬が戻ってきたとか」

崇くんの話では
以前はご近所のお年寄りが坂口さんちのおじいちゃんの様子を見にくる程度のことだったそうです。
それが、どこで知ったのか村の外の、知らない人たちがおじいちゃんに会いに来て集まるようになったのだとか。

小さな村のこと、みんなが助け合って暮らしているので、坂口さんがパートやアルバイトで家を空け時間に、ご近所さんが様子を見にきてくれていました。
村は陸地の端っこにあって海に向かって開けているので、わりと不便で、
目的なくわざわざ村の外から訪ねてくるような村じゃない。

だから安全、あんぜん、アンシン、安心。

長屋のように軒を並べた家同士は物音ひとつも聞こえてしまうし、
いつでも駆けつけることができるのです。

朝の片付けが終わって洗濯物を干す。
さてお昼ごはんにしようかなと冷蔵庫を開ける。
ごはんは頂き物のさんまのコンフィーと山芋の梅たたき・・・
でも一人で食べるのはさみしい
それなら、
と台所から茶の間へ運ぶためのお盆のまま、
普段着のまま、
隣の坂口さんのお宅に持って行って、
おじいちゃんの様子を見ながら食べる。
もしかしたら朝ドラを見ながらかもしれない。
おじいちゃんが起きていれば、合間にちょっとおしゃべりしたり、
お手洗いの介助をしたり。
すごくのんびりしたもので、
差し迫った、
誰かがつきっきりで面倒みるようなおおごとではなかったはずです。

ところが一月前、だれもいない時間に観光客が路地に迷い込み、
開け放っていた縁側から道をたずねた。

そのとき、
たまたま 坂口のおじいちゃんは起きていて、
たまたま 網戸ごしにそとを眺めていた。
たまたま それに気づいた観光客が顔をのぞかせて
たまたま おじいちゃんは相手が口を開く前に道に迷っているってわかった。

だから、きかれる前に答えちゃった。 

『間違ったと思ったら引き返せばいい。
来た道なら戻るのは簡単。
正しい道は知らない道じゃ。
無知を恥じちゃいかん。
だれでも歩けば道はできるたい』

ってね。

びっくりしたでしょうねぇ。
ちょこんとベッドに腰掛けた老人にとうとうと「道」を説かれたんですから。
でもおじいちゃんは来た道を戻りなさいって言っただけ。
正しい道は知らない道。そりゃそうです。
いま通ってきた道はわかっている(知っている)けど、間違っていたんだから、知らない道をゆきなさいって言ってる。

でも、言葉が古かった。それにお年寄りのゆったりした語り口のおかげで、人生の語りみたいな響きに聞こえちゃった。
結局その人は無事来たところへ戻り、予定通り約束していた場所で人とあうことができた。
だけど、おじいちゃんから帰り道だけじゃなくてとん挫していた事業の始末の仕方まで教えてもらっていました。手を広げすぎていた事業を創業時代にもどして、
取引先も昔からの長い付き合いのところに絞って意見を聞くようにしました。
するといろんなことが好転してゆきました。
まるで打ち出の小槌を引当てたみたいな変わり様に、周りの人は何があったか尋ねました。すると坂口のおじいちゃんの話になり、いつのまにかおじいちゃんは開運の神様になったのです。

「すぐに下火になるだろうけど、心配ですねぇ。あの路地はよそ者が入り込むのはちょっと危ない気がするのよ。第一留守にできないから、坂口さんはパートを休まないといけないし。彼女はあれで水質検査ではかなりの技術者だからね、困るんだな」

お参りに来る人はおじいちゃんにとお土産やお金を持ってくるのだそうです。お土産はともかくお金というのは、違うのじゃないかと思って受け取っていないそうですけど。

でもどうしてそんなに人気になったのでしょう?

「お地蔵さんなんだと思うのよね、僕は。失礼だけど」

話はようやく始めに戻りました。

「何を言ったかなんて、本当は関係ないんじゃないかな。答えはね、来る人のほうが持っていて、おじいちゃんはそれを引き出しているだけなんだよ」

なにか自分の力が及ばないようなことが起きた時とか、到底勝てない人を前にした時とか、できるのは邪心をすてて自分の身の回りの安泰を祈ることしかありません。
木の仏像や石のお地蔵さんは何もしてくれないけど、
無力ゆえに私たちは素直に手を合わせ自分だけの願いを託すことができるのです。

坂口のおじいちゃんは生きているしおしゃべりもできるけど、
無力という点ではお地蔵さんと同じ。
だから周りの人は引き付けるられるのじゃないでしょうか。
それに、おじいちゃんはすこーしぼんやりで、見当違いなことを言います。
それがまた、聞いた人には心の内側を照らされる、そんな感覚になるのではないでしょうか。

みんな、答えは自分の中に持っている。
わからないのはその答えまでの道のりでしょう。

その道のりは、人の数だけあってどれが正解でどれが間違いということはなくて、
それも分かっているのに、選べないのはたくさんあるように勘違いしてしまうから。
道は一つしかないし、すべきなのは淡々と選んだそれを歩きつづけること
そうだとわかれば迷うことがなくなり
ずいぶん自由になるものです。

気がついたらわたしはまた、思索の海をただよっていたみたいです。
崇くんは鉄板焼きをすっかりおなかの中に片づけてしまい、足りないよと冷蔵庫の中をあさっています。きっとここに残りご飯をいれてチャーハンにするつもりなのでしょう。そうそう、ここに焼きそばを入れてもおいしいのです。
これは坂口さんから教わったのでした。

だけど、坂口さんのお宅に人が来るのをとめるにはどうしたらいいのでしょう。水族館もそうですが、村に人が来てくださるのはうれしいですが、あそこはよそいきの場所。安心の生活の場所を壊されたくはありません。なんだか胸の真ん中がざわざわします。

崇くんはどんなふうに思っているのでしょう。
案外男の人はへっちゃらなのかしら。

「水族館の裏に本当のお地蔵さんがいらっしゃるんだけどね」

それを坂口さん宅へもっていこうってことですか。
どういう脈絡でそうなるの?とツッコミたくなったけど、
わたしには分かったのでそのまますすめます。

よさそうだけど、そのお地蔵さんも訳もなく移動させられるんじゃ
困るのじゃないですか?しかし解決策はちゃんと考えてくれていました。

「あれ、じつは水族館を建てるときに動かしたものなのよ。
ずっとほおっておかれていたので、ちゃんと祀らなくちゃいけないなぁと思っていたところ。あした、館長に進言してみる」

いろいろ解決しなければならない問題はありそうですけど、あの路地にお地蔵さんが立ったら、それが可愛かったら、素敵だなと思いました。
そう、できれば坂口さんのおたくの軒下あたりに。
お地蔵さんに手を合わせる人たちをおじいちゃんが網戸越しにながめる、なんてとても好い絵だなと思いました。
やはり、扇にかなめ、村にはおじいちゃんが必要なのです。

春の海はトロトロと眠気を誘うように静かです。
そろそろまた、あの愛すべき浜辺で、豪勢な鉄板焼きのディナーができる季節がちかづいてきました。

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