9月25日人を電波にして飛ばす & 【厩菓子】レモンケーキ
あれは小学校6年、年も明けあと数ヶ月で卒業という時期、急に図画工作や体育が名残惜しくなった。最後の図工はデザインだった。自分のイメージを考えてきて名前をデザインして表札にするというお題。私は漢字ではなくあえてひらがなで、文字をモクモクした雲で、それをピンクに塗り三機ばかりヘリコプターやプロペラ機を飛ばした。
ほんとうは前日伝えられた規定では文字だけで表現することになっていた。何を描いているかわかるような説明的ものは入れてはいけないことになっていた。私は、普段ほとんど話をしない父に相談していた。父は靴屋でポップも自分で描いていた。そのせいかもしれない。店に立ち寄ると丸文字で書かれた文字に影が付いていたり丸立体的だったり工夫が工夫を凝らしていて、紳士靴、婦人靴、子供靴、特売品とそれぞれ字体を変えて描く器用さでに尊敬していた。
ピンクの雲は私らしくない。父に相談しなかったら出てこなかったアイデアだった。それにヘリコプターと言うのも、父のアイデアだったと思う。
この絵は教師に絶賛された。あまりに簡単な作業であっという間に描き上げてしまった。教師は縦長の私の作品を黒板に貼りあそこがいい、ここがいいと誉めそやした。絵ももちろん工作でも褒められたことはこれまで一度もなかったから、ものすごくいい気分だった。だけど、どこかそれは、少し前に決まった私学の附属合格のせいじゃないかとも思った。その教師は美術の他に、文章の書き方も教えていて、その頃私が書いた短い文章も褒めてくれた。こっちの方は得意だった。それでいい気になって、少し大人の表現を使ってみようと「強いて」という言葉を感想文に入れた。
感想文って、原稿用紙何枚って決まっていると、さてどうやってマスを埋ようかと困るもので、結局あらあすじをかいて誤魔化すことになる。でも短く、200字ぐらいで書け、と言われると大層困る。自分の感じたことを説明するのに状況説明が必要なのである。その感情が特別なのか、あるいは限定的な状況の時にだけ起きる感情だからか、そこのところの説明を妙に丁寧にしたがる。山のように状況を積み上げ頂上に至ると「ね、ほら、だから悲しいでしょ」という具合に、やっと大っぴらに言える。そうでなかったら子供のつぶやきのように「嬉しかったです」「悲しかったです」で終わってしまうじゃない? そもそも感想文なんて何が知りたくて書かせているのやら。そう思い疑問点を見つけ出し論じてみればあ、これは感想文ではないと言われてしまう。つまりは、読んだかどうか確証が欲しいのだなと理解して、丁寧にあらすじを積み上げることになるんだけど。それでも文集に掲載される選ばれし感想文は、そんな御託を並べたことさえ反省させられるような名作揃いで、自分のチエタラーズを痛感させられるのだが。まあ、文章を書くとき、極力短い文章を書こう、と思って書くと長くなる傾向にありますって話。
話を戻すと、この「強いて」を教師は知らなかった。強いる、も知らなかった、言い換えて説明したのに。がっかりした。私が飛ばしたヘリコプターについて、「文字しかダメって言ってたじゃいですか」という横槍にも、「これはデザイン上OK」という返答。褒められて嬉しい反面、ちょいと理不尽さも感じた。でも人生ってこんな感じ?という感触を得た。つまり規定のようなものは、成果促進するためのものであって、足を引っ張るものじゃないのだ。それこそ理不尽だ。
その日の図工の時間ではほかに、病欠とかで仕上げられなかった絵を提出することにもなっていて、すごく頭がいいポッチャリでおしゃべりな男の子が家で仕上げてきた『未来の乗り物』を説明した。
新幹線に似たボディの電車がモノレールの上を走っている。周囲は未来っぽい建物がレールを取り囲んでいる。上部の方が体積がありそうなバランス悪い建物や、球体を串刺ししたような形のそれこそ未来っぽいのが林立している。当時の未来のイメージってこうだ。
「駅は?」教師が質問した。レールは奥から手前へ、左右に林の中の木々のようにこんもりと茂ったビル群の間の細い隙間を走ってくる。確かに、そこに駅はなかった。レールの乗り物というとまず駅から発想するのが教師にとって定石だったのがわかった。
「停まらないから駅はありません」とその子は。教師は「じゃあ、どうやって人は乗ったり降りたりするんだい?」と教師が尋ねる。男の子は「電波して下すんです」と答えた。
この答えがずっとずーっと、50年間私の中で尾を引いた。」50年前の私は「すごい!」と思った。人を電波にして下す、とはどういうことか、考えてもみたこともない発想だったから。もしかしたら、単純に教師の質問から回避したのかもしれない。でもそれだけじゃない気がした。
教師は人を電波に変えるなんてありえないと思ったか、納得しなかったみたい。感心している様子もなかった。目の前の駅のない乗り物の背景にはものすごいストーリーと想像が枚挙して押し寄せているというのに、深掘りしなかった。授業要項に規定されたカリキュラムは終わっていて自由なスタンスの時間に面白い授業を開くつもりだったんだろうに。
私は人を電波にするってどういうことだろうと、折に触れて考え続けてきた。あの時、絵を描いた本人はどういうことを考えていたんだろうとも悔やんだ。もっと話を聞けばよかった。でもいつも落ち着かなくて、男の子なのに声が甲高く、いつも先生の指示を先回りして行動するから、ちょっと困った子だった。言われる前に席を立ってカバンの中の宿題を撮りに行ったり、廊下がうるさいと自ら窓を閉めに行ったり。
三十年以上経って、息子にちょっと変わった友達ができた。文章能力がものすごくあって、添削の作文教室を紹介したら小学校5年生の時小説を一本書き上げてしまった。年長者が一言いえば、三、四つ、答えが返ってくる。その内容はたいてい基本・一般的なところから始まって「こうするのが普通なんだけど」という通説を論じ、最後に自分家ではどうしているか、自分はどう考えるかで締めくくられる。まるで辞書を読んでいるみたい。でも小学生だから、こちらは少々イラッとするのも事実。お母さんは大変だろうなぁと思っていた。そしたらADHDの判定をもらったらしい。おかげで自分の子育てのせいじゃなかったと安心した、と言っていた。学習障害という言葉が一般的になり出した頃だった。
50年前『未来の乗り物』で人を電波に変えて下すモノレールを描いた男の子はこの子の感じととても似ていた。名前も思い出せないから、どんな大人になったか知る由もない。残念だなぁ、あの時もっと話を聞いておけばよかった。
人は教わらなくても頭の中でいろんなことを考えるし、それに少しの情報や知識が入り、うまくスパークすると実体を得て面白いものも作ることができる。
最近一つ自分の中で結論に至ったことがある。それは人は『電波』だということ。肉体は入れ物として、そこに宿った意識体は電波である。これはほぼ事実ではないかな。意識体は、メモリ媒体である脳に知識や情報を蓄積して、形ある物理の世界でアイデアを実現するための方策を設計・実践の試行錯誤する。そう考えると、「物質に執着するな」「精神を大切にしろ」とかは、倫理や思想の話じゃなくて、生きるために忘れてならない真実なんだとわかる。形あるものに執着し、心を腐らせれば、いずれ形あるものを手放すとき、所有することに費やした時間が無駄だったと後悔する。精神は目に見えないから傷ついても癒すのは難しい。物理は目にみえ右から左に動かすのは容易いけれど、精神はポイントでは修復できない。読書感想文みたいなもんで、それに至るまでに長いストーリーを伴う。途中で違うと思ったら引き返す、別の道を探すのはあなたがあなたである精神を保つために絶対必要なことなのだ。
自分を電波だと考えると、いろんなことに片がつく。嫌なことをするときモヤモヤするのも、じゃあこの電波の周波数をどう変えればもやもやしないか考えればいい。人間にはしなくちゃいけないことが山ほどある。それをしないで済ますほど私はまだ人間ができていない。一応マジョリティーに身を委ねる。その時、モヤモヤ電波を発しなければいいのだ。何も感じない。嫌な電波を投げつけられても受け流す。座禅のメインもそれだ。いろんな雑念は受け流す。流すのは雑念を孕んだ脳にあるタンパク質。これが、歳をとると痴呆症の原因になる。体は自然と不要な物を体外に排出する仕組みを持っているから、物理的に有機物に宿った不要な思念を不要なタンパク質一緒のに流す。流すメタボリリズムに自分の意志で、不要なタンパク質をのせる。自分に不要な電波は、私の電波と絡めない。電波なんだから拾わなければ影響されない。
これを、眉唾というなら結構。それでも電化製品は壊れなくなった。反対に誰かの思念を拾うかもしれないけど、その時すでにそれは私のものだから著作権の心配もない。
単なる気のせいかもしれないけれど、案外これが調子いい。おかげで、最後には死んで無に帰るという概念には虚無を感じていたが、死は肉体の終わりであって魂の終わりじゃないと知ると、生きることに前向きになる。少なくとも世界の食糧難を加速させる存在だけではないと知る体。魂はつまり電波であり、電波は物質がなくなってもバイヴとしてパルスを送り出し続けるのだ。それにキリスト教が輪廻転生を否定する考えは間違いだとわかった。そもそもクリスチャニティーには少々利権的匂いがしていたしね。人間の受精卵から体の部位には、それぞれそれぞれ違った周波数・・・、鼓動のリズムというか、拍動の間隔というかそういうのがあってそれによって体の部位が作られる、ことはすでに解明されている。
今日のまとめ
①人は電波かもしれない。精神は電波で、そっちがメイン。
②人が発明するものは、すでに実在する何かからインスピレーションを受け取っていることが多い。例えばパソコン。電波で思考や情報を考察し、現実に落とし込む。
③小六の男の子でも「人間を電波にかえる」というコンセプトを持っている。子供の感性を大人の手垢のついたスケールで測ってはいけない。
④【厩舎菓子】レモンケーキ 最初の写真は庭のレモンで作ったレモンケーキ。焼いてから一日置いてアイシッシング。トッピングはグリーンのレモンの皮。切ると見事に黄色。レシピにベーキングソーダが入っていなかったので、1.5倍の分量に小さじ一杯加えてみた。膨らみは足らないが厚めに切ってセーフ。美味しくできた。