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凛として(掌編小説)
「…………キャン、ターンッ」
午前七時の弓道場に、単調な音がこだまする。
直前まで僕の頬に密着していた矢が、瞬時に的紙と一体化する。矢筒にしまわれている姿からは道具としか思えないのに、その時だけは生き物のように感じる。僕の手から放たれた矢は、気が向くときは的に吸い込まれていき、気が向かないときはどこかへ飛んでいく。そこに、僕の意思は介在しない。
朝、独りで弓を引く時間がたまらなく好きだ。
弓道部の普段の活動に何ら不満はないし、今の射はここが良かった・悪かったと互いに指導するのは、とてもためになる。ただ、なぜか朝に自主練するのが好きだった。淡々と、一人で弓を引いていく。
大学から弓道を始めた当初、ある先輩がこんなことを言っていた。
「弓道は、的中させるスポーツではないよ」
立ち振る舞いも含めたものが弓道と教わったけれど、どうせなら的中した方がいいんじゃないか。一年生の頃は、ぼんやりとそう考えていた。
次の矢を準備する。道場内に自分しかいないのだから、僕の動作以外の音は何も聞こえない。まだ昼間は暖かいけれど、朝は少し肌寒くなってきた。冷たい空気が、僕の皮膚を撫でる。僕の身体と弓道場の空気とを、繋いでくれる。
弓が徐々に軋んでいき、限界を迎える。会に入り、ただ矢が発射されるまで待つ。周囲に音を発する物体は、なにもない。
静寂。
弦音が、空間を切り裂く。的紙が破れる音は、聞こえない。
静かでない朝もある。真夏の暑い日、僕が意識しようがしまいが、セミの主張はうるさく耳に飛び込んでくる。ただ、弓を引いているときは、気にならない。心の中では、それほど騒がしくない。
弓を引く行為自体は、好きかと言われると言葉に詰まる。1本引くだけで時間はとられるし、何本も引くと疲れる。あとで矢を回収するのも面倒だ。
でも、朝の張りつめた空気の中、弓を引くのは好きだった。
一人には広すぎる、弓道場の空間。
肌に触れる、空気の温度。
無心の心に響く、弓矢の音。
視界に広がる、一つの的。
その的に吸い込まれていく、一本の矢。
他人には上手く説明できないけれど、心地いい時間だった。
遠くから、階段を降りる音が聞こえてくる。これが独りで引く、最後の一本になりそうだ。
背後で弓道場のドアが開いた。僕はそのまま弓を引いている。基本的に、弓を引く動作を途中で中断してはならない。たとえ、顔に虫がとまろうとも。
「…………キャン、ターンッ」
「しゃー!!」
背後から、声が聞こえる。僕の的中に対して声を出してくれたのだろう。残心をとりながら考える。決して振り返らない。
動作を終え、射位から退場する。その頃、先程の声の主が、僕の近くまで来ていた。
「おはよう」
「おはよう」
今日も気持ちのいい一日になりそうだ。
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カラエ智春さんの作品に触発されて、書いてみました。
この作品は、岩代ゆいさんが企画された
【極地的主観私設賞】#触れる言葉
参加作品です。
よろしければ、本企画に参加されている他の方の作品もご覧ください。
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