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無気力な不安

 定年してからもマラソンを走り、作文を書き、動画を作り、WEBサイトを作ってきたが、72歳を過ぎて、それらの意欲がなくなった。今までは、人に認めてもらいたい意欲があったから、マラソン・作文・動画・WEBサイトをSNSに投稿してきたが、今はその気持ちが起きない。
「これが歳をとることか?」
「これから、何を目標に生きるべきか考えた。」
2kmの散歩ぐらいはできるが、歩いても達成感を味わうことはなくなった。痛風の発作でビールを飲む楽しみは諦めた。旅行をしたいとは思わない。ボランティア活動をしたいとも思わない。友人と会って話したいとも思わなくなった。最近3週間、仕事を除けば朝起きてテレビの前に座って一日中、野球やドラマを見て過ごしている。
「生きる楽しみがない。」
「生きがいが見つからない。」

 5週間前に風邪をひき、治ったと思ったら、痛風の発作に苦しんだ。大いに苦しんだ。なんとか体調は回復したけれども、SNSに投稿する気力がなくなっているのに気がついた。
 人に認められたいという気持ちが見えない3週間、何一つSNSに投稿しなかった。唯一の救いはICT支援員の仕事で先生に頼まれた仕事だけは全うしようとする意欲が残っていた。仕事があることが救いである。まだ、他にもできそうなことは結構あるけれども、気力が注ぎ込めるのは仕事だけになっている。

 健康で何一つ不満のない満たされた生活をしている。食べるため、生活のためにあくせくする必要がない。とにかく、差し迫った緊張感はない幸せな余生だ。それでいて気力が湧かないというのは贅沢極まりない。
 妻がいなければ、毎日の献立を考え、買い物に行き、料理を作り、後片付けをしなければならない。自炊しなくても、食料を買ってきたり、食べに出かけなくてはならない。また、食べた後片付けはしなくてはいけないし、家の掃除、風呂の掃除、洗濯、生活必需品の買い出し、全て妻がしてくれているお陰で仕事だけしていれば住む生活を送っている。
「仕事に行って給料もらってきてくれるんだから、それだけでいいわよ。」
こう慰められても、もし仕事ができなくなった場合はどうなるか考えると根本の問題は解決していないことに気がつく。
 妻の言うのは「働かざる者、食うべからず」の裏返しである。病気であれば仕方がないけれども、もし健康で五体満足であるのに、気力がないからと言って何もしないのは粗大ゴミと同じになる。
 私は粗大ゴミの一歩手前まで来ている。だから、気力が湧かない状況は居心地が悪い。今は何とか仕事をこなして、もし仕事ができなくなって、病気を患えば仕方がない。けれども、なおも健康なら、家事や趣味やボランティア活動などを行う気力が欲しい。
 それでも、妻がいなくなれば最低限の家事をしてゴミ屋敷にはならない程度にはできる自信はある。もし、そうなれば文化的で最低限の価値のある人生には遠く及ばなくなる。だから健康で無気力な今が不安なのである。

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