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三河弁

「あした蓮如さんだぜ」
隣のおばさんが縁側に座って母に尋ねる。「蓮如さん」とは碧南市油ヶ淵近くにある応仁寺に立つ市(祭り)の名前である。室町時代に蓮如が宿泊した時期があったから近隣の者達は応仁寺とは言わず「蓮如さん」と言った。
「金がないで内職せにゃーいかんじゃん。」
母は「2B弾」と言う花火の筒を糊をつけた新聞紙で巻く内職をしていた。彼女は縁側で手を休めずに答える。
「家んこともあるから、そんなん、いけんじゃんか!」
「ゴロさんが儲けてくるからいいじゃんか?」
五郎さんは父で豊田自動織機の共和工場で働いていた。
「稼いだ分は酒代で飛んでいくに決まっとるが。」
父の話になると母はいつも不機嫌だった。
「あんたんとこのじいさんは」
おばさんちの舅は80歳を超えてなお元気だった。
「しょんぽけ担いで、はた行っただ。」
「あきちゃんが相手してくれんから、買い物、いかずん。」
 あき子は私の母ですでに亡くなって15年ほど経過している。隣のおばさんは最近まで元気でゴミ出しをしていたが最近は見かけない。亡くなった訳ではなく家で元気に過ごしているらしい。確か98歳か99歳になる。

 中日新聞西三河限定地方誌「ひまわり」に三河弁の特集記事が載っていた。三河弁を読むうちに65年ほど前を思い出した。少し脚色はあるが、まあこんなものだった。
 人糞を入れた桶「しょんぼけ」を天秤棒で担いだ姿をよく見かけた。男も女も瓦工場で働く人が多かったが私の父は豊田系の工場で働き、母は内職をしていた。100m程西にある駅には貨車が止まり瓦を積み込む様子を目にして育った。瓦を運ぶ三輪トラックは珍しく馬車が断然多かった。馬車から貨車に長い板を渡して人夫が10kgほどの瓦の束を天秤棒の両端に担ぎ、運び入れていた。人夫が渡ると大きくしなった板を鮮明に覚えている。
 そう言えば、あき子さんは隣のおばさんと共同で味噌を仕込み、年末には庭で餅つきをした。七輪を使って庭で秋刀魚を焼いていた。家の中には竈門があった。

 コロナになってもテイクアウトやデリバリーで家では料理は作らないらしい。井戸で水を汲んでいたのがペットボトルでお茶まで買う時代になった。近所にある回転寿司はコロナでも結構流行っているし、昼になればコンビニのレジに人が並ぶ。ペットボトルやプラスチック容器を捨てて地球環境を汚している意識は希薄だ。老人さえ喫茶店で早朝モーニングを楽しんで朝食を作ろうとはしない。65年も過ぎれば世の中変わるものだ。あれは古き良き時代だったかもしれない。三河弁特集のおかげで65年前の高浜を懐かしく思い出した。

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