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断れない気持ちの中に住む神

 七面鳥を食べるアメリカとカナダの(収穫)感謝祭はthanksgiving dayといい、日本の「勤労感謝の日」に当たる。日本の神社では豊作を感謝する「新嘗祭」という神事が行われる。大きく報道されない宗教的行事には神主と氏子と氏子委員が出席する。人口4万人ほどの地方都市にしては立派な神社の氏子委員を4年連続で務めた経験をもとにレポートを書いている。
 出席者は式服を着て、賽銭を投げ入れる人もいれば、玉串料を社務所に納める人もいる。神殿が恭しく開かれ、野菜や餅や鯛などお供物が運ばれる。祝詞(のりと)が読まれる。やがて、代表者が玉串を捧げる。私も彼に合わせて二礼二拍手一礼を行う。今年はコロナの影響で出席はなかったが、いつも市長・県会議員・国会議員秘書・(時には本人が)・市会議員・学校長などが並ぶ。彼等がなぜ出席するのかを、いつでも考えていた。そして、次が4年間考え続けた結論。
「多分、出席を神社側にお願いされたからである。断ることもできる。断っても非難や批判されない。しかし、出席しない事実を腹の中で悪く思う人がいるかもしれないと不安になる。政治家にとって、つまるところ選挙を意識するためだ。」
こう思った。
 私は神道など信じない。多分、他の人たちも信じてはいない。それでも、初詣をし、賽銭を投げ入れる。七五三に出かけ、おみくじやお守りを買う。お札も毎年買う。
「そんなものを買うな。」
私も家人が買い求めることを否定したりはしない。それどころか、最近は初詣に行くようになったし、賽銭も投げ入れるし、多額の寄付もする。若い頃から無心論者を気取りながら神前で結婚式を挙げた平均的な日本人だ。私の様に日本の神を否定的に捉えていても、それを声に出したり文章にしたりしない。国粋主義に反対の考えを表明しても、誰も責めたり怒ったりしないと考えている。それでも、一抹の不安が残る。だから言わない。小さな不安が神前で結婚式を挙げさせる。政治家の皆さんと同じだ。
 氏子委員は町内会長を終えた者が務める習わしである。
「何故、氏子委員に連なる町内会長を引き受けたか?」
それは知り合いに町内会長を頼まれたからである。私を勧誘した知り合いも誰かに頼まれて町内会長になり氏子委員を務めた。ただし、きっぱり断っても誰も非難しない。それなら、
「何故、断らなかったか?」
私が断わっても別の人に役が回っていく。町内のために働くのは町内会費を払う延長であり、誰かのためになるボランティアだ。そうは言っても、町内会の役が嫌で町内会を脱会する人もいる。それなら、
「何故、脱会しないか?」
脱会しても誰も非難しないし、村八分になることもない。
「しかし、影でなんと言われるか?」
他人の目など気にしなければいいのだが、気になるから町内会は脱会できない。そして、他人の目を気にするから町内会長は断れない。氏子委員になるのも政治家と同じである。日本人が信じる神は「断れない気持ち」の中に住んでいる
 春日神社の中には大小10を超える神社が混在する。町内に分散していた神社が取り壊されるときに移築されたらしい。靖国神社遥拝のための石碑もある。戦前戦中はその場所から靖国神社の神達に向かって拝んだことが予想される。昨年の大晦日、春日神社内で靖国神社の支所を発見した。日清日露、日中戦争と太平洋戦争で亡くなった市民が祀られている。戦死者の写真が祠の壁にびっしり貼ってある。
「ひょっとして、この中に戦犯がいるかも知れない。戦争中なら人間的でない行為はあって当然だからと言って神として祀るべきではない。」
こんな考えも去来した。しかし、私はこの種の考えを口にしたことはない。発言したところで非難されることはないが、陰口を言われるかも知れないと思うから口にできない。
 明治維新以後、戦死者は神になることができた。信長も秀吉も家康も江戸時代の藩祖も皆神として祀られている。日本では天皇が認めれば誰でも神になれる。昭和天皇が幼少時代に死んだ蛙を憐れんで蛙大明神と命名した逸話を耳にしたことがある。デマだったかも知れないが、この話さえ口に出したことはない。私の中で「大きな力」が働いていたからだ。

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