私が席替えの権利を持っていた
学生の頃、席替えの前になるとにそわそわして、たまらなくなったのは私だけじゃないだろう。
もう幾度となく席替えを経験してきたけれど、その中でも忘れられない席替えの記憶がある。
その席替えは私が高校2年生の頃に遡る。
当時の担任の先生は、みんなから「奈美ちゃん」と呼ばれていて、古典と現代文を教えていた。
とにかく気品とユーモアにあふれた女性で、ホームルームが始まると「ごきげんよう~」と皇室さながら優雅に教室に入ってくるのに、授業の冒頭15分ほどたっぷり使い、いかにとらやのおはぎ(期間限定・店舗限定で販売される幻のめちゃうまおはぎです)が美味しいについて力説するような人だった。
そんな、奈美ちゃんも例に漏れず、何度か席替えをしてくれた。席替えルールは以下の通りだ。
提出物(夏休みの課題だとかそういう類のもの)を出していない生徒と希望した生徒が、一番前の教卓のすぐそばの席になり、その他はくじで決めるという至って一般的で良心的なものだった。
そして、とうとうその日も席替えが始まったのだ。
私も含めてクラスメイトはみな一様に、前の席を敬遠していた。ただ、目の悪い子が前に座りたいと希望したっきり、教卓の前を希望する生徒はいなかった。
そこで奈美ちゃんが口を開いた。
「ん~、でも、平尾ちゃんはな~提出物出さないからな~」
悩ましいような、それでいてからかうような顔で平尾ちゃんを見る。
この平尾ちゃんというのは、教卓の真ん前に今も座っている彼のことで、私の思いを寄せる人でもあった。彼は怠惰を塊にしてかたどったみたいな男で、そろそろ制服も衣替えの時期だというのに夏休みの課題を出していなかった。ただ、私は前の日の平尾ちゃんとのラインで、席替えに向けて提出物を提出したことを知っていた。当然、奈美ちゃんもそのことを知っていたはずだ。
平尾ちゃんも、前の席にはうんざりしていたので必死に抵抗する。
「いやいや奈美ちゃん…僕、課題出したっすよ!」
私は、事の顛末を静かに見守っていた。彼の席は、これからの学校生活のモチベーションに直結する。どうか彼を一番前の席から解放してあげて…。
そんな祈りを捧げていると、どういうわけか奈美ちゃんは「衣ちゃん~どうする?平尾ちゃん課題いつも出さないし、もう今回も前の席でいいよね~?」と私に決断を仰いできた。突然、私は席替えの権利を一任されたのだ。
クスクスと笑い出すクラスメイトたち。それもそのはずで、平尾ちゃんは奈美ちゃんが殊更かわいがっている生徒のひとりだったので、みんなまた始まったなという感じで、教室はからかいと期待が混じった空気に包まれる。
私は脳みそをフル回転させた。
ここで奈美ちゃんの提案を承諾して、私も前の席を希望すれば絶対に隣の席を確保できるが、そんなのは平尾ちゃんのことを好きだと公言しているようなものだ。だけど、彼が前の席に座れば、四六時中彼の後ろ姿を視界に収めることができる。
というより、そもそもこんなにも悪ふざけに浮足立ったこの空気で「平尾が可哀そうだから、席替えさせてあげましょう!」なんて言えない。
「そうですね!平尾は前でいいと思います!」
教室はどっと笑いに包まれて、平尾ちゃんがこちらを恨めしそうに見ていた。ごめん、でもこのセリフ以外言える空気じゃなかったよ。
言うまでもなく、平尾とはその日の夜喧嘩になった。そして、口論の末に「ていうか、奈美ちゃんが私に聞いてきたのがいけないんじゃん!」という結論に到達した。奈美ちゃんの不自然な権利の行使により、険悪になったものの、なんやかんやで1年後私たちは付き合うことになった。
そして、二人の間で奈美ちゃんの席替えは、私たちがそういう仲だと勘づいていた彼女のからかいだったのだろうと、思い出すたびにほころぶ思い出に変容していった。
その後も奈美ちゃんには何度か平尾にまつわるからかいを受けるのだが、二人で下校しようと並んで歩いているのに鉢合わせたときは澄ました顔で「さよなら~」とか言うもんだから、本当に奈美ちゃんは分からない。
もう、平尾とは別れてしまったけど、あの席替えは忘れることができない高校時代の思い出として、私の心をずっと温め続けている。