諦められない話
こんにちは、193です。
皆さん誰しも諦められないものやコトの一つや二つあると思います。
高級ブランドのバックとか、推しの限定グッズとか、かわいいお嫁さんがほしいとか、こんな仕事がしたいとか、色々。
それに向かって努力したり自分磨きや仕事に励むのはとても健康的だと思います。
しかしながら、その反対の「諦める」という行為が不健全で意欲がないような印象であることに、私はストップと言いたい。
継続することは誰にでもできることではありません。だからこそ素晴らしいと賞賛されます。
でも現実、多くの人は大なり小なり「諦める」ことをしているんです。
ただ、諦める部分が人によって違うだけで、それによって印象の良し悪しが出ているだけなのではないでしょうか。
例えば、一人でバリバリ働いて稼ぎたいから家族を作ることを諦めて仕事に専念するとか
例えば、家族との時間を大事にするために自由度が下がる昇進を諦めるとか
そういう前向きな「諦め」は世の中にたくさん転がっています。
つまり、「諦め」るのは簡単だけど決断するのは簡単じゃないことだし、「諦めない」ことと同じぐらい覚悟がいることなんじゃないでしょうか。
諦めは、継続と同等の自分への決意表明なんじゃないでしょうか。
………かくいう私は、諦められなくて苦しんでいることがあります。
それは自分のことです。
自分の可能性を諦められない、身の丈に合わないことを頑張っている自分に酔うのをやめられない、心のどこかで「すごい自分」がいつか目覚めてくれると盲信している………
とても苦しいです。
だって、自分を信じているからじゃなくて、ダメな自分を認めたくなくて、諦められないでダラダラと幻想を見続けているのだから。
いっそのこと、自分のあらゆる可能性を見限ってしまいたい。
こんなことを言ったら「やる気がない」とか「そんなんじゃ世の中生きていけないぞ」とか「それで本当の幸せは手に入らない」とか、心配の声が聞こえてくる。
不安からくる、他人のような口ぶりの自分の声がする。
「やる気がない」?
そりゃ無理していっぱいいっぱいなんだから、やる気どころじゃない。そんな余裕ない。
「世の中生きていけない」?
そうかもしれないけど、世の中色んな生き方が探せば転がっている。今は視野が狭いだけじゃないのか?やってみれば案外生きていけるかもしれない。
「本当の幸せ」?
幸せに嘘も本当もなくないか?自分が心地よく、意欲的になれる環境であれば、そこがどうあれ本人たちにとって居心地が良ければ、それが「幸せ」じゃないのか?
要するに、私はいい加減「いいこな自分」「優秀な自分」「いつか大成する自分」という他人からの期待のレッテルを、ぶち破りたいのだ。
悪い言い方をするなら、期待を裏切りたいのだ。
その期待は私自身ではなく、「いいこ」という私が頑張って作った外皮に向けられたものだから。
私自身は望んでいない、重荷でしかないのだ。
全部全部裏切って、外皮を脱ぎ捨てて、意地汚く自分勝手に生きていけたら、私にとっての「本当の幸せ」が見えてくるような気がする。
皆ができることが私にはできないと思った。
だから人一倍頑張った。取り繕った。
でも私の中身は空っぽだ。
どうにかして満たしてあげたい。
満杯にはならずとも、せめて何かを注いであげたい。
と、社会と組織の荒波にもまれながら切に願う今日この頃。
本日はここまで。