弱者男性の推察──ニーチェの理論から──
昨今のTwitterの弱者男性についての推察です。気軽に読んでくださいね。有料部分はあまり大声で言えない雑感(文の要旨として重要でない)ですが、無料部分だけでも読んでみてください。仕事前と仕事終わりに一気に書き上げたので雑なのは申し訳ないです……。
ニーチェの「僧侶的価値観」について
少し回りくどく、一見関係のなさそうな話をするが、僧侶たちが高い身分を得る社会では、清浄と不浄の対立が強調され、清浄は特定の行動をしないこと、つまり禁止の順守を意味する。僧侶たちは、自己肯定感や優位性を得るために、一般の人々以上に厳しい禁止を課し、それを守ることで自分の優越感を強める。しかし、これにより自然な欲望が抑圧され、病的な状態に陥る。僧侶たちはその原因を欲望に求め、さらに禁欲的な修行によって欲望を否定しようとする。こうして、欲望を「悪」と見なす僧侶的な価値観が生まれる。
僧侶階級と戦士階級は戦争を巡って対立する。戦士にとって戦争は自己肯定の源泉だが、僧侶にとっては好ましくない行為だった。無力な僧侶たちは戦士を憎むが、直接反撃できないため、「強者は悪で、無力な者は善」という価値転換を行うことで復讐を試みた。この価値転換は、支配され続けたユダヤ民族に受け入れられ、ユダヤ人は僧侶的民族となった。彼らは圧制者に実力で復讐できないため、心の中で敵を呪い、これが後にキリスト教に受け継がれ、現代の道徳の基礎となった。
僧侶的価値評価(「強い者は悪い、無力な者こそ善い」)は、ユダヤ教からキリスト教に引き継がれた。この移行を可能にしたのは、パウロが確立した「十字架に架けられた神の子イエス」の教えである。イエスの犠牲によって人類の罪が赦されたという神の愛の論理は、実際にはユダヤの僧侶階級が抱えていた「強い者」への憎悪と復讐心を隠している。イエスの犠牲により、神への信仰がユダヤ人以外にも広まり、ユダヤ教の価値評価(弱者が祝福される)が普遍化された。
パウロの教えによって、キリスト教がローマ帝国で広がり、最終的に公認・国教化され、ローマ教会の権力が確立されたことで、僧侶的価値評価が勝利を収めた。この価値観は、憎悪と復讐心に基づくものだが、キリスト教の「神の愛」という教えがそれを覆い隠し、現代の道徳や価値観の基礎となっている。
僧侶的価値評価は、ルサンチマン(恨みや妬み)に基づく無力な人間の態度から生まれる。弱い者は強くなりたいと思うが、自身の非力さから強者になれず、ルサンチマンが溜まる。これが現実の行動ではなく、裏で「強者は悪い」と否定する形で発散される。
とどのつまり……僧侶的価値観とは弱者男性の持つ価値観のことだ。
「真の強者男性」(真とはどういうことかは後述する)は自己肯定から始まり、自分の強さを認め、対立物に感謝すらする。一方で、ルサンチマンの人間──我々弱者男性──は敵を邪悪と見なし、怪物のように歪曲して攻撃し、自分を「善」とする。
強者男性は行動と幸福を結びつけ、現実に立ち向かうことで幸福を得るが、ルサンチマンの人間は行動せず、安静や平和の中に幸福を求める。これによりルサンチマンが解消されず、敵を憎み続け、内心では復讐の機会を狙うようになる。強者男性はルサンチマンをすぐに行動で発散するが、我々ルサンチマンの人間は敵を悪人と見なし、「弱い自分こそ善い」という価値評価を作り出す。
「強い者は悪い、弱い者こそ善い」とするルサンチマンの価値評価は、ネット全体を覆い、「わるい空気」が充満している。
ネット社会が卑小化し、平均化する様子は見る者に嫌悪感を抱かせる。人々は大きく成長しようとせず、下へと堕落し、薄っぺらく、凡庸で、快適さや利口さに安住している。人間は「より善く」なる一方だが、その「善さ」はかえって人間の力強さや偉大さを失わせている。
人間に対する愛や畏敬、希望が失われた。これは人間存在を否定するニヒリズムに他ならない。
ルサンチマンと奴隷道徳とTwitter
我々ルサンチマンの人間の価値評価がTwitter全体に広がった原因は、奴隷道徳の成立にある。弱者である仔羊は、猛禽(強者)に対して「強者は悪い」と怨むのは自然な態度である。しかし、ここから「強者は弱さを選ぶことができたはずだ」という誤った推論が生まれた。この結果、主体という概念が形成され、強さも弱さも主体の自由な選択によるものだと信じられるようになった。
奴隷道徳は、この主体という概念を基にして、ルサンチマンの価値評価を正当化する。強者は弱さを選べたにもかかわらず、「あえて強さを選んで弱者を苦しめた」ために悪であり、弱者は強さを選ぶことを拒み、弱さを選んだことで善であるとされる。弱者は、自らの弱さをあたかも功績のように見せかけ、この欺瞞によって自己保存を図るのである。
この主体への信仰は、さらにあらゆる場面にまで拡大される。弱さを選んだ善人(弱者)の主体には、すべての面で幸福が約束され、強さを選んだ悪人(強者)の主体には、罰が下されるという救済の論理が確立される。
奴隷道徳は、弱さを徳として価値転換した。弱ければ偉いのである。
弱者男性は、現実での不幸にはネットでの幸福が、現実での幸福にはネットの罰が待っていると考える。この「正義」とは、実際には弱者の強者に対する報復であり、表向きは報復を否定しているものの、いつか強者への復讐と勝利の達成を期待しているのである。これこそが、弱者もまた強者になりたいと望んでいることの証拠である。
「よい」と「わるい」(強者男性)と「善」と「悪」(弱者男性)はネットでは対立してきたが、現在は弱者男性的評価が優勢となり、その対立は個々の精神の中で行われている。
歴史的には、ローマとキリスト教のかかる価値の対立があり、両者は激しく争った。ローマがキリスト教を迫害した一方で、キリスト教は復讐の物語を通じてローマを乗り越え、最終的に多くの人々を支配した。強者男性的価値はルネサンスやナポレオンによって一時復活したものの、宗教改革やフランス革命によって再び敗北を喫した。
現在の時代は弱者男性的価値が支配しているが、この対立は終わっておらず日夜激しい戦いが行われている。
論のまとめ
ルサンチマンの表出
Twitterでの「弱者男性」の一部が、強者や成功者に対して強い反感を抱くことがある。これは強者への憎悪に基づく「ルサンチマン」であり、「自分の弱さは善であり、むしろ道徳的に優れている」とする心理的な価値転換を行っている。これは「強者男性」に対して自己の弱さを正当化する姿勢として現れることがある
自己肯定のための「弱さ」の美化
ニーチェが指摘した「弱者が自らの弱さを功績に見せかける」という態度が、現代の「弱者男性」の間で見られる。自分の不遇や社会的地位を逆に「正義」や「道徳的優位性」に変換し、「自分は善い存在で、強者こそが悪だ」と捉える態度が、ニーチェのいう「奴隷道徳」と通じる。
攻撃ではなく受動的な反応
僧侶的価値観(ルサンチマンに基づく価値観)は受動的で、行動しないことで幸福を得ようとする。「弱者男性」の一部が、行動する代わりにネット上で不満を訴えたり、他者を批判することに満足している。
「強者になりたい」という潜在的な欲望
一方で、ルサンチマンを抱える者たちも、内心では「強者になりたい」という欲望を持っている。Twitter上で自らの不遇を嘆きつつも、成功者を羨ましく思い、内心では自分もそのような強者や成功者になりたいと願っているのだ。ただ、その願望を実現できない現実に対して、憎悪や嫉妬が生まれていると分析できる。
反感の終わりなきループ
ニーチェによれば、ルサンチマンに基づく生き方は、成功に結びつかないため終わりがない。Twitterでの「弱者男性」の一部も、例えば女性への反感を抱きつつも具体的な行動や変革には至らず、ネット上での無益な議論や批判が繰り返されるだけになることがある。これは、ニーチェが批判する「無力さからくる反復的な怨恨の連鎖」に当てはまるかもしれない。
みんな、元気に生きようね~
参考文献
・フリードリヒ・ニーチェ著/信太正三訳『ニーチェ全集〈11〉 善悪の彼岸/道徳の系譜』
・小坂国継・岡部英男編著『倫理学概説』
有料部分:Twitterの弱者男性アピール合戦と「半強者男性」の誕生
こうして、奴隷道徳と弱者男性のためのTwitterが完成するに至った。
24/7、常に無意味な砲火は吹き荒れる。
では、昨今のTwitterにおける弱者男性アピール合戦とはなにを意味するのだろうか?
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