第2回「刺青」との出会い
凡天太郎が画学生の最終年にあたるこの年、凡天は京都市今熊野にあるお寺の離れに下宿していました。その当時の事が自著『肌絵』に書かれています。
「私が刺青の美に魅せられるようになったのは、昭和25年ごろからである。朝鮮戦争の勃発で世の中は騒然としていたが、私は肌の下に埋められた青と朱の絵の不思議なまでの魅力に我を忘れていった。当時、私は京都芸大油絵科に籍を置く、21歳の画学生だったが、生きた人間をカンバスにする絵画芸術の面白さに夢中になったのだ。この機縁を作ってくれたのは、刺青師の彫金老人だった。私は今熊野に下宿していたのだが、たまたまごく近所に彫金老人がひっそり住んでいられた。私は老人の仕事を知るなり、衝動的に訪ねていかないではいられなかった。」
(初代彫清 凡天太郎『肌絵 日本の刺青』、立風書房、1973年、P10)より
晩年のインタビューでは、
「夏、障子を開け放していたところ、土塀の壊れたところから彫金氏が刺青を彫っているところが見えた」
(検証・長井勝一「小さな巨人」第10回 梵天太郎氏に訊く『月刊漫画ガロ』1997年8月号所収、青林堂、2012年、P252)より
と語っており、このディテールは映画『刺青』でも再現されています。
彫金氏は、鯉の図柄に赤い金魚を点景とすることで刺青の世界で新機軸を生んだ人物です。肌に絵を飾る流行は江戸時代末期にはじまったのですが、図柄を踏襲し伝統を守ることを尊しとしている古風な社会では大きな評判を呼んだといわれています。
銭湯などで刺青をした肌に接する機会が幾度かあり少なからず興味を覚えていた凡天は、紹介者もなく彫金氏を訪ね、画学生として同じ道の絵の先輩に敬意を表しにいきます。
そこで気に入られた凡天は、「学生さん、滅びるものを勉強したって、なんにもなりませんよ」とたしなめられたものの、頻繁に出入りすることを許される立場となり、初歩的な質問にも必ず短い返事をしてくれたと言います。
「最初のうち、私は彫金老人を親切なお爺さんとだけ思っていたが、訪問を重ねるうち、親切以上の優遇を受けていることが分かってきた。老人の家には六人の弟子が住み込んでいたが、彼らはまるで口もきいてもらえない身の上なのだった。誤解を招くから断っておくが、彫金老人がとくに冷たく無慈悲にあしらっているのでもない。こうした手職の世界では目で見て習い感じとるのがシキタリのようだった。」
(初代彫清 凡天太郎『肌絵 日本の刺青』、立風書房、1973年、P21)より
以上からも、凡天が弟子ではなく画学生として出入りを許された身という立ち位置であることがポイントになっていることがわかります。この時点で凡天は、刺青の妖しいまでの美しさに魅了されながらも徒弟制度の厳しさや暗さから、自分が刺青師になるとは考えていなかったようです。ただ愛好者のひとりとして、趣味的な範囲で手を伸ばしたいという程度で、彫金氏の下絵や作業の様子をみたり質問をしながら、自分なりの様々な工夫を考えていたと回想しています。
この年、凡天は京都美術学校を卒業。紙芝居に関わったのは昭和22年から25年とわずか3年足らずですが、一般的に街頭紙芝居のピークは昭和24年から昭和25年と言われていることから、一番の稼ぎ時にありついたことは間違いありません。
お金になるという明快な行動原理と、20歳にして曲者ぞろいの街頭紙芝居の世界を生き抜く才能と、テキヤ的な嗅覚の賜物といえます。
画学校を卒業した凡天が選んだ道とは?次回をお楽しみに
(つづく)
映画『刺青』について
この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。
ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!