第7回 凡天太郎、失踪
凡天太郎が少女向け月刊マンガ誌でメジャーデビューを果たしたのは昭和33年1月。戦後のベビーブーム世代をターゲットにした月刊少年少女マンガ雑誌が最盛期を迎えるのがこの時期です。
貸本出版社は雑誌への対抗作として、見世物的ともいえる過激な路線を打ち出すようになるのですが、そこに追い打ちをかけるように悪書追放の動きが高まっていきました。
ここから週刊マンガ誌が主流になっていく昭和37年頃までが月刊マンガ誌の最盛期のため、またしても凡天は一番良い時期に一番良い場所で商売をはじめたわけです。そして一躍売れっ子作家の仲間入りを果たします。
作者(石井きよみ)を女性と思い込んでいた読者も多かったらしく、著者の写真が掲載されたときにはあまりにイメージとかけ離れたイカつい男だったために苦情が殺到したそうです。
凡天太郎の石井きよみ時代の主な連載作品を紹介します。
「星ひめさま(原作:八剣浩太郎)」
光文社『少女』昭和33(1958)年8月号~昭和35(1960)年1月号
がヒットし初の二年間の長期連載。併行して、
「ママのひとみ」
集英社『少女ブック』昭和34(1959)年1月号~7月号
「ママへの手紙」
秋田書店『ひとみ』昭和34(1959)年4月号~昭和35(1960)年3月号
と三本の連載をすぐに抱える売れっ子作家になりました。この他に読み切りや、100ページ超えの付録本なども執筆。特に昭和34年前半は少女マンガ時代でも最も絵が上手い時期。気力も充実していた事がうかがえます。
昭和35年以降も、
「ママがなく夜」
秋田書店『ひとみ』昭和35(1960)年4月号~6月号
「笛吹童子(原作:北村寿夫)」
秋田書店『ひとみ』昭和35(1960)年7月号~11月号連載
「少年テムジン(原作:真弓典正)」
光文社『少女』昭和35(1960)年7月号~12月号
連載は途切れることなく順風満帆に思えましたが、凡天は疲弊しきっていました。
凡天 連載を何本も抱えてて、寝る暇がなくて。こんなに才能を切り売りしているようなことをやっていると、今にダメになっちゃうんじゃないかなっていう不安が出てきましてね。要するに才能の切り売りですから。
宇田川 先生は刺青の方も、当時なさっていたわけですよね。だから漫画よりも、そちらの方に本当の興味、関心がおありになって。
凡天 少女マンガ描きながら、やっぱり刺青のこととか、純粋絵画のこととか、いろいろ気になるわけですよ。でも、お金になるからマンガを描いてしまう。
(宇田川岳夫「凡天太郎インタビュー」『マンガゾンビ』所収、太田出版〔¥800本⑬〕、1997年、181ページ)
凡天太郎は「才能の切り売りに嫌気がさした」としながらも、その反動で自分の書きたい物への欲求は高まっていたと思われます。鬱屈した精神状態の中で産み出された「少年テムジン」「笛吹童子」の絵柄は、少女雑誌とは思えないほど気迫に充ちた整った絵で展開され、最終回に近づくにつれ殺気を感じるほど研ぎ澄まされているからです。
でもその張り詰めた状態が長く続くはずはなく、昭和35年末に突如すべての月刊マンガ誌連載が終了します。同時期に曙出版の貸本短編誌『ハイティーン』などに短編を発表したことが確認できますがほんの僅かな期間です。
街頭紙芝居、赤本マンガ、描きおろし単行本、絵物語、月刊少女マンガ誌と戦後わずか15年の間に起こった様々な変化に、途切れることなく対応してきた凡天太郎が漫画界から完全に姿を消したのは昭和36年半ばのことでした。
(つづく)
映画『刺青』について
この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。
ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!