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第11回 栄光の頂点

「混血児リカ」は終戦直後の横須賀で占領軍兵士によるレイプによって産まれたリカが、差別に苦悩しながらも、裏社会にはびこる悪い男どもを次々と退治するバイオレンス劇画。リカは特攻くずれとして世間からの冷たい視線にさらされ自暴自棄に明け暮れた凡天太郎の体験が色濃く反映したキャラクターです。

そんな殺伐とした内容にもかかわらず強い女性主人公が男どもを次々と倒していく展開は女性読者の心をつかみ連載期間4年3か月、全214回連載、総ページ数2140にのぼり当時としては大長編になりました。以前は国会図書館の蔵書も切り抜きなどがあり通読が不可能でしたが、現在はマンガ図書館Zにて全話無料公開され全8巻合計閲覧数は35万viewを超えています。
本作は不良少女シリーズの集大成であるだけでなく、人体破壊描写、ヤクザ、刺青、犯罪などあらゆる凡天劇画の要素がすべて詰め込まれています。

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集英社では『週刊明星』『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』の3誌同時掲載を達成。盲目のボクサーが主人公という斬新な設定の「ブラックプロファイタータケル」が連載開始した『週刊少年ジャンプ』では、水木しげるが『千年王国』を連載中でした。

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「タケル」は竹内寛行(第9回水木しげるの回の最後の方参照)がチーフアシスタントを務めており、二人の鬼太郎作者が同じ雑誌で連載するいう展開に……。1970年の『週刊少年ジャンプ』誌上で鬼太郎VS偽鬼太郎の代理戦争が起こっていたのです。「千年王国」は全30回連載に対し「タケル」は10週打ち切り未単行本化と惨敗ですが、凡天太郎が意識していたかどうか、今となっては誰もわかりません。

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『週刊明星』昭和46(1971)年7月4日号に掲載された「混血児リカ/春の章⑦」からは、毎回扉絵にはリカのスタイル画が掲載されるようになります。そのスタイル画はすべて刺青の和柄を取り入れた凡天デザインによるタトゥーファッションで統一され、最終回までほぼ毎号続きました。同時期から劇中のリカのコスチュームにも取り入れられています。

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これは、ロンドンでショーを成功させた山本寛斎の凱旋となる日本でのファッションショー「KANSAI IN TOKYO」日生会館・国際会議場(昭和46(1971)年6月4日)に凡天太郎自身が参加し、日本の伝統美が世界で通用する事を確信したことも大きいはずです。このタトゥーファッションは、リカのイメージを決定づけるものとなりました。

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凡天太郎のタトゥーファッションをいち早く取り入れたのが、初期ジャニーズ事務所を代表するフォーリーブスです。フォーリーブスのアメリカ展開の際の衣装を凡天太郎が手掛け、タトゥー柄セットアップ着用で歌番組や『週刊明星』のグラビアにも登場し、シングル盤「はじめての世界で」(昭和46(1971)年12月発売)ではタトゥーファッションの四人がジャケットに使用されています。

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その次に取り入れたのは、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)。昭和47(1972)年4月1日東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトルマッチで着用したガウンを、ロッキー青木の仲介で凡天太郎がデザインしました。

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このガウンはアリから勝新太郎にプレゼントされ、現在は行方不明となっています。

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連載開始から2年後の昭和47(1972)10月に「混血児リカ」の映画化が決定します。『週刊明星』誌上で大々的にオーディションが開催されました。

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第2作となる「混血児リカ ひとりゆくさすらい旅」公開時には、タトゥーファッションを纏った青木リカが週刊明星の表紙を飾るなど華々しいメディアミックス展開も行い、凡天の刺青はお茶の間に浸透していきました。

「混血児リカ」昭和47(1972)年11月26日公開
「混血児リカ ひとりゆくさすらい旅」昭和48(1973)年4月7日公開
「混血児リカ ハマぐれ子守唄」昭和48(1973)年6月23日公開

 同時期には、凡天太郎の劇画作品「猪の鹿お蝶」も映画化しており、

「不良姐御伝 猪の鹿お蝶」昭和48(1973)年2月17日公開
「やさぐれ姐御伝 総括リンチ」昭和48(1973)年6月7日公開

昭和48(1973)年の上半期まで約半年で、凡天太郎原作による映画作品が5作品公開されています。この年、凡天太郎は劇画刺青25周年パーティーを開催。

10劇画刺青25周年

さらに、銀座三越でタトゥールックのファッションショーと展示会を開催。

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演歌歌手としてキャニオンレコードからLP「彫清・番外地演歌 凡天太郎の魅力」が発売。刺青師として初代彫清 凡天太郎『肌絵』を立風書房から発行。刺青・漫画ともに絶頂の最中、昭和48(1973)年11月4日発行の『週刊明星』で「混血児リカ」最終回と共に突然の絶筆。

絶筆について凡天は、少女マンガ時代と同じく「才能を切り売り」しているような自己嫌悪に陥った事、信頼していた『週刊明星』編集長である木村茂が亡くなって張り合いのある編集者がいなくなったという事、この二点を理由に挙げています。

でも、それだけでしょうか?

『実話ドキュメント』篠田編集長と付き合いのある『週刊明星』編集者の一人が、実際に「混血児リカ」の原稿を取りに行ったときのことを証言してくれました。

――その編集者が凡天先生のところに原稿取りに行くとね、日本刀に打粉をポンポンポンとね、やってて。そこに「先生、原稿お願いします」って言うと、ドスッと畳に日本刀を突き刺して「できとらん!」って一喝。新入社員のころだから、本当にビビっちゃってそのまんま帰ったって(笑)筆を折ったとかいうよりも、原稿を取れる編集者がいなくなったんだよ。

昭和48(1973)年は劇画誌の再編期でもありました。凡天とつながりの深い『漫画天国』(芸文社)、『漫画ゴラク』(日本文芸社)は読切中心から連載作品を中心に路線変更し週刊化。『漫画オール娯楽』(双葉社)昭和47(1972)年9月2日号をもって休刊。『別冊漫画ストーリー』(双葉社)は昭和47(1972)年8月26日号(通巻123号)以降誌面が刷新され路線変更の末、昭和48(1973)年末に休刊し、『漫画ストーリー』に統合され週刊となった。

昭和41(1966)年頃の劇画誌創刊ラッシュの頃はほとんどが読切作品で、雑誌の数もどんどん増えていったため、書けばどこかに掲載されるという可能性は高かったのです。しかし連載作品を主軸にした雑誌ばかりになっていくということは、他の連載作品が終わらないと掲載枠が無いためにお呼びがかかりません。それに加えて雑誌の数も減少しています。

『漫画パック』(芸文社)は昭和46(1971)年9月号をもって休刊。『漫画ОK』(新星社)は昭和47(1972)年3月23日号(NO.162)で休刊。こういったエロとグロとナンセンスの混沌とした雑誌が淘汰されていったのと入れ替わるように、エロに特化した劇画を専門に掲載する「エロ劇画誌」が誕生します。その象徴が昭和48(1973)年『漫画エロトピア』創刊です。ここからエロ劇画誌の創刊ラッシュが起こります。この時期にエロ劇画に転向した劇画作家が多いのは、エロ劇画誌の発行点数が増えた事だけでなく、読切作品中心だった事が大きいと思われます。

昭和48(1973)に入ってから劇画の仕事をセーブした凡天は、タトゥーファッションで得た手応えから、刺青へ注力したいという思いが強まったに違いありません。

それに加えて、戦後マンガのムーヴメントをいち早く察知しながら生き抜いてきた凡天はここから先のマンガの世界は自分にとって商売がやり辛くなると察知したと考えられます。

ここから凡天太郎は「刺青の大衆化」に向けて本格的に動き出すのです。

(つづく)

映画『刺青』について

この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。

ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!


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