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第3回 紙芝居の衰退、長井勝一との再会

卒業後の進路として、本命は画家志望でしたが挫折し、刺青に魅了されながらもその閉鎖性に疑問を持っていたため彫師にはならず、翌年より就いた職とは、東京神田にある私立の女学校S学園の美術教師でした。

そこで事もあろうに生徒だった園長の娘を妊娠させた事で退職に追い込まれます。これが凡天太郎最初の結婚です。(学生時代に一度結婚しているという記事も存在しますが、凡天太郎夫人である田中多美子さんの証言を優先しました)

教師を辞めてから二年ほど、様々な職を転々としたとなっていてはっきりしていません。紙芝居の世界に戻ったという説もあるし、彫り師の真似事をしていたという説もある。この頃、風呂屋などでまずい出来の刺青を彫っている人を見つけては、強引に連れて帰り、きれいに仕上げて彫り物の練習にしていたという証言もあります。

一般的に「テレビの本放送が始まった昭和28年末以降、紙芝居は衰退期に入る」と言われています。街頭紙芝居は、紙芝居を見に来た子供相手に5円でアメを売る事で成り立っているビジネスです。地域差はあるにせよ生活水準が向上するにつれ、こんな効率の悪い仕事をやる人も減り、見に来る子供も減少していきます。

その最中で、山川惣治、小松崎茂、福島鉄次といった作家が牽引する少年月刊誌を中心とした絵物語ブームが起こります。もちろん人一倍流行に敏感な凡天は絵物語作家へ転身……、本名の石井清美名義で活動し単行本も発表(ヘッダー参照)。

しかし絵物語ブームも長くは続かず、時代はマンガへと移り変わっていきます。

白孔雀_カバー

昭和30年1月に凡天太郎を名乗った最初の作品とされている『白孔雀』というB6上製の書き下ろし単行本が中村書店から発行。絵物語のリアルなタッチを封印して描いた丸っこい絵柄の少年剣士を主人公にした児童漫画です。

昭和31年には後の「ガロ」編集長であり発行元の青林堂の社長となる長井勝一が「日本漫画社」という出版社を興します。長井と凡天の繋がりは昭和23年9月に読売新聞に掲載された「マンガ家求む」の新聞広告を見て、凡天が原稿を持ち込み、長井が興した最初の出版社である長井文林堂から何冊かの赤本を出版したのがきっかけでした。

晩年の長井勝一の写真や、南伸坊が描くイラストからは飄々とした人物という印象が強いですが、自著『ガロ編集長』の第三章「特価本と赤本の世界」では、戦後の混沌の中で露天商を始め、出版に活路を見出すまでの破天荒な青年期が描かれています。

昭和28年頃からの長井さんをおおまかに説明すると……

露天商を始めますが、やがて売り物がなくなり、仕方なくクズの山の中から見つけた刷り出し見本を適当に折り曲げて本の形にしたものを綴じて露店に並べてみるとバカ売れしたことに味を占めます。

そして娯楽に飢えた時代にマンガが飛ぶように売れる事を発見し、特価本だけでなく裏ルートから仕入れる紙を使って赤本を作り始めました。

裏ルートとの付き合いも含め酒の量も増え、加えて無茶な遊びもたたって結核になり風呂屋で喀血。

それでも一本二万円する特効薬であるストマイを五〇本も打ち続け、体調は完全ではなかったものの治った気になっていると昭和二五年暮れに同じ風呂屋で大喀血。

その後、四年間の療養生活の間に赤本、絵物語の時代は終わり、貸本マンガの時代に突入していました……

そして長井さんは貸本マンガ出版を手掛けるために「日本漫画社」を設立し出版業界に復帰。

凡天はナカムラマンガを離れ、長井の元で仕事をするようになります。

これまで冒険ものや時代劇を中心に手掛けた凡天でしたが、長井勝一は凡天の隠れた才能を見出します。

それは少女マンガだったのです……

(つづく)

映画『刺青』について

この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。

ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!


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