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第10回 「混血児リカ」前夜

凡天太郎の代表作「混血児リカ」が連載したのは劇画雑誌ではなく、集英社が発行していた芸能情報誌『週刊明星』です。「混血児リカ」は3回も実写映画化される大ヒット作となりましたが、突如ヒットした訳ではなく『週刊明星』での連載4作目にあたります。

「仮面の天使」
 昭和43(1968)年9月29日号~10月20日号〔全4回〕

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「美しき復讐」
 昭和43(1968)年10月27日号~昭和44(1969)年3月30日号〔全23回〕

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「おんな刺青師ルリ」
 昭和44(1969)年4月6日号~8月20日号〔全22回〕

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「混血児リカ」
 昭和44(1969)年9月7日号~昭和48(1973)年11月4日号〔全214回〕

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上記のように『週刊明星』では5年間休まずに作品を発表し続けています。昭和43(1968)年10月~昭和48(1973)年10月の約5年間で、『週刊明星』での連載を続けながら106作品(連載を1作とカウント)を他の劇画誌に執筆していた事になります。それだけでなく1968~1969年にかけて隔週で『漫画パック』の表紙、1970年は毎月『漫画OK』の表紙を手掛けていたのです。

これらの執筆を支えていたプロダクションが横浜・生麦時代の「ナギサプロ」~神田・水道橋時代の「凡天太郎プロダクション」です。

「ナギサプロ」は凡天太郎プロダクションのごく初期に使われていた名称で、1970年頃に水道橋へ事務所が移転した際「凡天太郎プロダクション」に名称を変更しています。

再び凡天太郎夫人にナギサプロのお話を伺いました

第9回掲載インタビューの後日です

――先日、ママさん(多美子さん)にお話をお聞きしてから、生麦周辺のことをいろいろ調べたんです。「バー渚」は地図の調査で昭和44年までやっていることがわかりました。

多美子さん 生麦の物件はね、地元のYって人がやってる不動産屋の男どもがパパを騙くらかして取ったんだ。パパ(凡天太郎)がYさんに全部任せろって言うもんだから。あと、金貸しやってたKっていう男がいてね。パパはその人のこと「頭取!頭取!」って呼んでたんだけど、一億払うから多美子さんの娘を俺にくれって言うのよ、きっと日本の国籍が欲しかったんだね。

――その話題も気になりますが(笑)僕が気になっているのは、増刊週刊明星『混血児リカ』第2集(1973年発行)に水道橋へ移動してからの凡天プロの写真が載っていて、そこにウチには若いアシスタントしかいませんって書いていることなんです。

凡天プロ

多美子さん わー、懐かしい写真。吉田クニオが二代目凡天太郎を襲名したのは本当で、パーティまでやったんだけど、パパに成りすましてあちこちで悪さしてることがわかってダメになっちゃったの。この左側の痩せた男がタクシーの運転手になってたさくらいやすおだよ。さくらいとしおの弟。

――水道橋にプロダクションが移ってからもママさんは絵の手伝いをしていたんですか?

多美子さん してない。わたしはその頃、会計やってた。

――先日ママさんから聞いたお話を聞いたあとで、寛行さんが明治40年生まれでナギサプロに来た時点で60歳を超えてた事を知って驚いたんですよ。

多美子さん えー!若く見えたよー。だってさー年中、おばさんのオンナ連れてきてね、「これ、今のカノジョ。なー、さっきもキスしてきたんだよなー」なんて言うのよ。

――それに戦中には戦意高揚の紙芝居なども手がけていますし、戦前から紙芝居を手掛ける一目置かれる存在だったはずですよ。そんな人が自分のプロダクションに来て、凡天さんは相当喜んでいたんじゃないですか?

多美子さん パパは寛行さんよりもあっちの人を気に入ってたね。紙芝居のえーと、片腕が無いあの人...、落合...

――落合秀彦さん!落合さんは腕が無いんですか。

多美子さん そう。パパがね「バカなんだよー、こいつな!(戦争中に)鉄砲が飛んでくるほうに向かって逃げて撃たれてんの。バカだねー」っていうもんだから、あたし「アンタね、人の事バカだとか何だとか言っちゃダメ!」って怒ったの(笑)

――なるほど腕が無いのが落合さんで、足が無いのが小山さんなんですね。これではっきりしました。(注:前回のインタビューでは、どちらが足がない人か思い出せなかった。)アシスタントは凡天さんより年上の方が多かったんですか?

多美子さん そう。紙芝居の人だから。

――とすると、生麦のナギサプロと水道橋の凡天太郎プロダクションへ変わっていく中で大幅なメンバーチェンジがあったんじゃないですか?

多美子さん クビにしたの。一時期、みんなシャブやってたから。それに男どもは自分達でシャブを分けてお金にしてたらしいのよ。パパが怒って「俺を取るのか、シャブを取るのか」ったら、お金にもなるからってシャブの方に着いて行っちゃった。それでパパが全部クビにしてナギサプロを解散したの。

――水道橋についてきた人で覚えている人いますか?

多美子さん 歌手志望でタクミちゃんって若い男の子がいてね。みんなシャブがいいって出て行っちゃった後で帰って来たの。パパはあの頃、けっこうほらヤクザの部類に入っていたから外にも子分がいたし「先生にヤキ入れられたら怖いから」って。

――寛行さんも生麦から水道橋について来た一人ですよね。『週刊少年ジャンプ』連載の「ブラックプロファイタータケル」(1970年)で、作画にクレジットされてますし。

多美子さん 寛行さんはオンナ1本だったから(笑)年中、そのおばちゃん彼女を連れていて「な、お前。さっきのキスしたのうまかっただろ」って言ったら彼女が「はい」っつーのよ、バカだねー(笑)

――寛行さんは彼女を仕事場に連れてきて、彼女は仕事終わるまで何してるんですか?

多美子さん 待ってるの……(笑)終わるまで、ずっと待ってるの。不思議だったよー。よっぽど惚れてたんだね。寛行さんは必ずメモ帳をもっていて、事務所にいる人たちやお客さんの似顔絵を描くの。うまかったよ。名人だった...…

(2017年2月1日川崎にて)
「続・田中多美子さん(凡天太郎夫人)にナギサプロ時代のことを聞く」凡天劇画会『生きている霊魂』より

小山秀彦のご子息からは、幼少期に父に連れられて水道橋へ遊びに行った経験があるとお聞きしています。竹内寛行と同様に薬物に染まらず「ナギサプロ」「凡天プロ」を渡り歩いた一人です。

こうした背景の中で、『週刊明星』での連載を続けながら106作品(連載を一作とカウント)他の劇画誌に執筆を続けたり、凡天太郎が編集長となり自社で発行した『ブラック♠エース』(販売元 淡路書房)を創刊したりしていたのです。

5年間にわたる「週刊明星」連載の原点『仮面の天使』は、全4回の短編連載。「週刊明星」の読者の多くが女性だったことは、少女マンガ経験者の凡天にとっても好都合だったのではないでしょうか。この顔見世興行で、ある程度の反響を得たことから初の長編連載となる『美しき復讐』がスタートします。父を殺し、妹をレイプした5人の男たちを一人ずつ趣向を凝らした手段で血祭りにあげていくアクションバイオレンス巨編です。

「おんな刺青師ルリ」は日本初の刺青師を主人公としたマンガ作品。児雷也・綱手姫・大蛇丸の呪われると言われている絵柄の組み合わせを彫った人間の運命や、生きた人間の皮を剥ごうとする狂気の刺青コレクターとの対決といった刺青を題材にしたエンターテイメント作品。主人公のルリの武器は手彫り用の針。現在も文庫化されている小沢昭一『珍奇絶倫小沢大写真館』でも本作について触れています。

小沢 刺青の修行というのは、最初はどうやって

彫清 大根で彫るんです。大根を三日ほど陰干しにして置くんです。そうすると皮が縮んできますね。

小沢 あァ、人間の肌とおなしように。

彫清 そうです。それで勉強するんですが、大根の山を築くくらいでないとうまくはなれないと……

小沢 大根とはまた、役者には耳の痛いはなしで(笑)。彫清 しかし大根では、感じがでませんねェ。ですから、ひどいやつは犬をつかまえてきたり、猫をつかまえてきたりして、毛を剃って彫るわけですよ。

小沢 とにかく生き物でやらないと(笑)

彫清 このあいだ、ぼくもね、ボクサー種の犬が桜のを彫ってる劇画を描きましたけど、みんなびっくりしましたネ。じっさいに、犬に彫るということはあるわけですよ。お客さまはいないけど……(笑)。

(「人肌に彫る 彫清(凡天太郎)さんに聞く」小沢昭一『珍奇絶倫 小沢大写真館』話の特集、1974年4月発行)

この「ボクサー種の犬が桜のを彫ってる劇画」というのが本作で、刺青の品評会に桜吹雪を彫った犬とも出場し優勝するエピソードが登場します。現在では賛否ある表現だと思いますが、本作の見どころの一つになっています。

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このような作品を経て「混血児リカ」は連載開始します。

(つづく)

映画『刺青』について

この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。

ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!


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