第9回 劇画雑誌創刊ラッシュ
凡天太郎は放浪の刺青修行を終えマンガ家に復帰した昭和41(1966)年から昭和48(1973)年に筆を折るまでの8年間に187作品を発表しています。
ですが『ビッグコミック』(小学館)、『週刊漫画アクション』(双葉社)、『ヤングコミック』(少年画報社)、『プレイコミック』(秋田書店)といった大手出版社による劇画誌とは無縁な存在でした。
凡天の主な活動場所となったのはナンセンス漫画やレジャー情報のおまけ的にマンガが掲載しているような雑誌が劇画ブームに乗じて路線変更したような雑誌たちです。カストリ雑誌を前身とする実話誌『笑の泉』(一水社)が『笑の泉サンデー』としてマンガ誌に転換し、そこから劇画誌『コミックサンデー』となった例もあります。
昭和41年頃に起こる青年劇画誌創刊ラッシュは、貸本衰退後の貸本マンガ家の受け皿として機能しただけではありません。実話誌や画報誌といったフィールドで活躍していた作家や画家、少年誌で活躍していたマンガ家などがひしめきあう混沌が魅力です。
凡天太郎のマンガ家復帰の足がかりとなった雑誌『漫画天国』(芸文社)は昭和35(1960)年創刊。ほかの雑誌よりも比較的艶笑寄りではあったものの大人向け漫画誌の中で突出した要素ありませんでしたが、昭和41(1966)年2月4日号(NO.143)では、後にSM劇画や緊縛画でブレイクする笠間しろうがマンガ作品を発表し、翌号の2月18日号(NO.144)に水木しげるが「怪物マチコミ」で初登場したあたりを転機に雑誌全体のカラーが変わっていきます。
『漫画天国』は劇画雑誌の中でも最も早く水木しげる作品を掲載した雑誌でもあります。
凡天は昭和41年7月に登場し、ナンセンスマンガ枠のレギュラーとして活躍しますが、昭和42年に入ると未掲載が目立ちます。
そして昭和42(1967)年7月7日号(No.180)にこれまでのナンセンス色の強い作品から路線変更した作品「首」で再び漫天に登場。
シリアスなストーリーに優れた画力で見せる残酷描写の完成度は高く、凡天は昭和42年頃に再び看板作家として活躍。劇画雑誌創刊ラッシュに対応すべくプロダクションを設立し『漫画OK』(新星社)、『漫画パック』(芸文社)、『漫画オール娯楽』(双葉社)、『漫画ゴラクdokuhon』(日本文芸社)とレギュラー掲載誌を増やしていきます。
凡天太郎夫人にナギサプロ時代のことを聞く
〈聞き手〉凡天劇画会:國澤 〈サポート〉梵天太郎事務所 統括:加藤 弘
「ナギサプロ」というプロダクション名は神奈川県横浜市鶴見区生麦にあった「渚」というバーの二階にプロダクションがあったことに由来している。
バーの二階にはマンガのプロダクションと刺青の彫り場が併設されており、マンガのアシスタントの他、刺青の弟子や演歌の弟子、ただの食客など30人ほどがひしめき合っていた。この30人という数字は、当時全員の食事を多美子夫人とその母・ミネで準備していたことから覚えているそうだ。
――「渚」はお母さんがやっていたお店なんですよね?
多美子さん 母さんは田中ミネっていうんだけど。ウチは生麦に100坪くらい土地を持ってて、その中に四軒建物があった。「渚」と「フライパン」っていうレストランと靴屋さんがあった。ナギサプロは「BAR渚」の2階。
――ナギサプロと凡天太郎プロダクションはどう違うんですか?
多美子さん おんなじ。
――その頃の凡天プロのメンバーで他に覚えている人はいますか。
多美子さん さくらいやすおっていう弟子がいてさ、結局、最後に会った時はマンガ家やめて東京でタクシーの運転手になってたよ。弟のとしおもウチにいた。それから落合...
――秀彦?
多美子さん そう落合秀彦。この人は足がないの。パパが言うにはよ、戦争で鉄砲を撃ってくるほうに向かって逃げて足を吹っ飛ばされたんだって。この人が、いくら働いてもボーナスがないって言うもんだから、「ボーナスが欲しけりゃ、自分で書け」ってパパ(凡天太郎)が怒っちゃったの覚えてる。
――竹内寛行(兎月書房版鬼太郎の作者 )さんは最初からいたんですか?
多美子さん いた。彼女がいて、すごいノンべ。寛行さんは京浜急行で通ってくるでしょ。そしたら必ず女連れてくんの。そんでパパが「なんだ寛行さん、その子たちはどうしたんだ?」って訊いたら、「いや、俺が凡天先生のとこに行くって言ったら、来たいっていうから連れて来ちゃいました。」って。パパも女嫌いじゃないっていうか、好きだったじゃんある程度ね(笑)。「あっそっか!じゃあ上がれよ上がれよ」って酒盛りはじめちゃって。冗談じゃないっての。
――(笑)、寛行さんは女の子連れてきてマンガ描かないんですか?
多美子さん そう!飲んでばかり。それで「先生ェ、これ俺の彼女!」って言って写真を見せるのよ。それがババアなの全部!(笑)それで来る前にキスしてきたとかさ、新宿にあったゲテモノ料理屋で精力剤入りの焼酎を飲んできて、仕事場で「先生、俺、カッカしてきた!」とか「ムラムラするよ!」とか言うの。そんなのアタシたちには関係ないじゃん(笑)なんて野郎だと思ったよ。
――あとは、小山秀彦さん。
多美子さん そうそう居た!この人は足が無くて...
――小山さんも足が無いんですか!
多美子さん あれ?
――同じ秀彦だからごっちゃになってませんか。小山さんと落合さんは同一人物ではないですよね?
多美子さん 同じじゃない。別の人。
――まあ、どちらかの方の足が無いということで(笑)。あと、宮田雪絵さんって記憶にありますか?
多美子さん この子は若い子だったってことだけ覚えてる。
――とにかく凡天プロにはマンガのアシスタント以外にも、凄い数の人たちが出入りしていたと聞いています。
多美子さん 刺青の方と劇画のプロダクションが同じ部屋の中にあったからね。
――彫り場も同じ場所ですか?
多美子さん そう、マンガの弟子が彫っているのを横で見ている訳よ。そしたら突然、誰かが「あ~あ」とか大声を出すわけ、彫られている方は何があったんだってびっくりするじゃない。どうしたんだって訊いたら「ちょっとイタズラしただけです」とか、そういう事をやる奴らなのよ。弟のとしおにも何かやらせようということになって、試しに描かせてみたら、ロクな絵描けなかったの。だからパパが「才能ないから、人夫でもなんでも職を変えたほうがいい」って。
――多美子さんも描くのをお手伝いしたんですよね。
多美子さん した。いきなり、ここに障子を描いてくれっていうの。描ける訳ないじゃない。そしたら、パパ(凡天太郎)に障子の前に連れて行かれて、ここに座れって言って「この角度から見えた通りに描くんだ」だって。
――そんなメンバーでよく8年間で短編長編合わせて150作以上も描きましたね。
多美子さん パパが主人公を描いて、アシスタントたちは背景だから。パパと「間に合わないから変わりばんこで寝よう」って言ったときもあったくらい忙しかったよ。だけど、アシスタント連中はちょっと目を離すとマンガの中にいらん事を描くわけよ。机の上に勝手にコンドームの箱を描いたり。パパがお前は俺の人気をつぶす気か!って、よく怒ってた。
――その、いらん事ばかりするアシスタントだけで書いた『夜のハレンチ野郎』って作品があるんですけど、覚えてます?
多美子さん 全然知らない。(笑)。
――プロダクション以外の漫画家の方が凡天プロに手伝いに来ることはありましたか?
多美子さん 手伝っているのはあまり記憶に無いけど、橋本将次が遊びに来た時の事を覚えてる。ものすごい大きな外車に乗ってね。「渚」のあった狭い通りに入ってきて、出られなくなっちゃったの。道幅いっぱいになっちゃって。パパが「バカだなー、あいつな!金儲けしたつもりで、でかい面して、こんな細い道に入ってきやがって。」って言ったのよ。子供を連れて沖縄にも遊びに来たが事ある。
――もう、橋本先生がでかい外車で凡天プロにやってくるというシチュエーション自体が最高ですね!凡天さんといえば、新宿とか銀座でいつも飲んでいるイメージがあるんですよね。都心まで距離がありますし、生麦時代はそうでもなかったんですか?
多美子さん 全然。車で六本木や銀座までピューッと行っちゃうの。新宿なんか、ヤクザ者が溜まっている真ん中をでかい面して歩いていくの。そしたら、みんな、先生!先生!って言って道を開けるの。ヤクザならたいていパパの事知ってるから。
――凡天さんって男気の塊みたいな人なのに、昭和30年代は少女漫画家で、劇画家になっても女性主人公の作品が多いんですよね。奥様から見て、凡天さんの心の中に乙女な部分があるなって感じたことはありますか?
多美子さん 無い!一度も。ただ単に女が好きなだけだと思う(笑)。
(2016年1月16日川崎にて)
凡天太郎は根っからの親分肌を発揮して、貸本マンガから劇画雑誌という時代の移り変わりの波に乗る事の出来なかった画家を積極的にプロダクションに引き込むだけでなく、まったく役立たずの素人の面倒まで見はじめます。
このはちゃめちゃなプロダクション体制で代表作『猪の鹿お蝶』『混血児リカ』を産みだしていくのです…
(つづく)
映画『刺青』について
この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。
ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!