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第13回 刺青師一代

昭和59(1984)年頃から、凡天太郎は刺青師として築き上げた人脈を活かし『実話ドキュメント』に登場する右翼やヤクザのインタビュアーとコーディネイターを務めるようになります。同誌では小説の執筆を開始。挿絵も本人が手掛けています。

引き続き『実話ドキュメント』篠田邦彦編集長にお話しを伺います……

――梶原一騎よりも先に「男の星座」というタイトルで柳川次郎を主人公とした小説を書いていたのに驚きました。

単行本化もしてないし、商標登録もしていない。どっちが先に有名になったかというだけの話だと思うけどね。同じタイトルの小説があったとしてもおかしくはない。

「小説柳川次郎 男の星座」は、昭和59(1984)年5月創刊号から昭和61(1986)年9月号まで全28回。物語は民族主義団体の活動を行う義士として故郷に錦を飾った柳川次郎が回想するシーンから始まる。明友会事件の後、山口組の全国制覇第一先鋒部隊として近畿地方へ勢力を伸ばすところで第一部完となり続編は執筆されていません。2019年に凡天劇画会が自費出版で単行本化しました。

男の星座01_01

――でも柳川次郎はこの2作両方に共通する登場人物なんですよね。

タイトルは安直だったけどね。三作目の旭琉會 桜一家 中村総長の小説は沖縄だから南十字星で「サザンクロスギャング」。柳川さんは朝鮮半島出身なんで星を見ながら故郷を思うというような、そのあたりの安直なところだと思うよ。

――凡天さんが柳川さんの団体の顧問だったということも、それほど知られていることではないですよね。

右翼活動自体が知ってる人は知っているという世界だし。独特だったんで、好きな人は好きだし嫌いな人は嫌いだし。凡天さんの思想は独特だから、右翼なんかじゃないって言われているのもあるし。ただ、柳川さんに付いて韓国に行くっていうのは多かったんじゃないかな。柳川さん自体は私は親しくお話したことないからよくわからない。佐野さんは何回か会って、話もしているんだけれども…警視庁、公安上がり、会長の佐野さん。自殺しちゃったけれども…。その柳川さんの友達ってことで、凡天さんは顧問をやってた。

――友達というだけで顧問には就任しないですよね。

うん、独特の思想、主義というのを持っていたの。だからそういう形での思想を享受してもらえるっていう考えもあったし。それこそとんでもないこと言い出すし、天皇陛下なんていらないみたいな形になってきちゃうところもあるんで、受け入れるところは少なかったと思うけどね。でも何団体かの顧問や相談役になってはずだよ。柳川さんの団体の〇〇支部なんてのは、凡天さんが作って団体に入れたって話だよ。

世間一般の右翼のイメージとは異なるかもしれないが、凡天太郎は反戦主義者である。特攻隊に配属され多くの友人の死に出会い、出撃の直前で終戦を迎えて生き残った経験は人生観を決定づける出来事となりました。もし自分が死んだら友の眠る沖縄の海に散骨してほしいと強く望んでいました。昭和60(1985)年頃から、自らの劇団を率いて特攻隊をテーマにした作品を上演し、戦争の理不尽さを訴えています。(画像の公演では友人である鈴木則文監督が演出を担当)

同期の桜1985

――マンガ家時代は、こういった活動を行っているように見えないですが。

コンプライアンスなんてのは、その当時なかった訳で。

――じゃあ、僕がマンガの方面からしか見ていないから、わからなかっただけでこういった活動は地続きなんですね。

放浪時代には彫清って名前で彫師の修行をやって。その当時、彫妻さんって人がいて、唯一の兄弟弟子という形なんだけど、その人が彫師をやってたの。凡天さんは絵が描ける。彫妻さんは技術を教える。そういうのでやってたよね。シャブやって破門になった人間とか有象無象が集まって、「混血児リカ」なんかはそれと並行してやってたわけだよ。

――凡天太郎の本質を突くには、右翼、元ヤクザという部分が不可欠だと思われますか?

うーん。絶妙な位置だったのが良かったんじゃないかな。彫師であるということ。その筋の人からも先生と呼ばれる立場であったいう。

――凡天さんと行動していて印象に残っていることがありましたら

酒癖悪いから、日本酒呑むとダメなの。一緒に〇〇に行った時のことだけど、大広間のずーっと並んでひな壇の方に先生が並んでそこに総長から一門からずらーっと並んでて。私は端っこでテープ回していたら、「そうですか。〇〇はそれで覚悟が張れるんですか……ふーん……」とか始まって、私は遠くにいたからわかんなかったの。そのうち「記者さん、こっち来て」って呼ばれて、近づいていったら……、あーやってるー……と思って。総長は「じゃあ、ここからは代行にタッチして私は帰る」というし、みんなもう何か、ゴーサインが出たらやっちゃうぞっていう感じなのね。本人は気楽に「そうですか!」とか酒を飲みながらどっかりと座っているところに、私が「先生、もうそろそろ…量がアレですから」って。もうまわりがお前連れてきたんだから、お前が何とかしろって空気なの。で、「先生そろそろ宿に戻りましょう」って言うと、「何ぃ、篠田!代行が今から行くっちゅうところに行かないでどうすんだぁ、このやろう…」「代行の席に行かなくてどうすんだ」って、「もう飲みすぎてますから」ったら。「バカヤロウ、酒は飲んだら死ぬまで飲むもんだ」とかなんとか言って飲みながら寝るのも得意だったしね。

――命がいくつあっても足りないですね……

それは本人も言ってた。本当にね、とんでもないジジイだったよ。殺されるかと思った、みんな殺気だってて、良い気分で飲んでるのは本人だけだから。これで襲われたら…、ヤダよな、こんなの…って。たいがい、総長クラスにかみついてるから。この時は手が出てなかったから良かったものの、はるか昔は私の知らない間に手ぇ出してることもあった。やられる方も酔っぱらってるからっていうので、若い衆が止めるんだけど、若い衆までボコボコにしちゃうし、もうどうしようもないんだよ。でも憎めないんだよ。次の日に会って「もう凡天さんと酒は飲まない。日本酒は飲ませない」っつって。それから二、三回呼ばれて、またやりそうになって。ついに出入り禁止になったんだから。

――相当深いところでつながっていることがわかりましたけど、大変でしたねとしか言葉が出てこないです……

うん、大変よ。ウチはお金がなかったから、私の給料の中で交通費を支払って連れてくわけよ。そうすると「篠田ぁ、グリーン車があいてるぞぉ」って。「先生ぇ…、グリーン車乗るお金ないから」って言っても、「向こうで迎えに来てるだろうから、自由席から行ったらカッコ悪いだろ」と。「空いてるから、なんか言われたら移ればいいだろ」って座っちゃうし。そんな感じで、あっちゃこっちゃ行きましたよ。でもね、とんでもないジジイなんだけど、とんでもなく愛される人でもあったの。ホントに「こんなくそジジイ!」とか思いながらも、なんか許せちゃうところがある。要するに財布持たずに日本中どこでも行ける人間。それができる人なの。そういう人が今いないから。

凡天太郎のコーディネートによる記事の代表的なところでは、凡天を聞き手に抜擢した「ニッポン極道劇場」という企画が昭和59(1984)年10月号から開始している。

昭和59(1984)年12月号~昭和60(1985)年1月号に掲載された「全桝屋連合会会長志村三代目 早川和夫総長」の回では、凡天太郎がまだ学生の頃、船橋の叔父のもとに身を寄せていた時代の思い出話を中心に、早川総長との交流が明らかになる。

早川総長

同年12月号(※「凡天太郎交友録」に改題)「極東飴徳一家顧問 宗像 博」の回では、凡天の横浜・鶴見時代の流しの親方・宗像 博と二十年ぶりに再会を果たす。

宗像

凡天「いまは極道の世界も平和になりましたが、むかしは戦国時代でしたね。あのころ親方の義理のある人が危ないってんで、二人で一尺二寸のドスをかくしてね。あれはなんの事件だったんですかね」

宗像「おれも忘れてしまったが、よくそんなことがあったね。まあ、お互いに若かったしね、ハハハハ」

ナギサプロ時代の凡天太郎がよくわかるやり取りである。

昭和60(1985)年7月号からは、紙芝居・絵物語時代からの友人である橋本将次による「イラスト絶頂カルチャー 上からバッコン」が連載開始。話題の女性タレントの濡れ場を中心に細密なペン画で描く5ページほどの連載で、翌号からは「イラスト性感セミナー」に改題。平成8(1996)年まで10年近く続いた。昭和63(1988)年、橋本は大橋ジロウ名義で「凄く悪い奴」「超能力殺人事件 腹上死の怪」や「ひくひく令嬢」といった作品も執筆。その後も、前田寿安など凡天周辺の作家が登場した。

街頭紙芝居の生き証人である凡天と橋本が1990年代後半まで同じ雑誌に掲載されていたことは、ほとんど知られていない。

昭和61(1986)年10月号より全桝屋連合会名誉顧問志村三代目 早川和夫総長をモデルにした「早田 保」が主人公の「極道水滸伝」を連載開始。昭和22年頃の船橋を舞台にしたフィクション要素の強い群像小説で、京都美大の貧乏学生・北野は凡天太郎がモデルとなっている。最終回が掲載されたのは平成9(1997)年9月号。10年を超える長期連載となった。

1990年頃、沖縄へ移住。多美子夫人がくも膜下出血で倒れ、療養のためである。刺青も二代目に譲って引退するつもりだったが、沖縄に凡天太郎がいるという噂はすぐに広まり刺青を彫ってほしいという客が殺到、特に米軍の兵士からのオファーが多かったという。さらに刺青の弟子希望者も押し寄せた。周囲からの要望に応える形で、後身を育てるべく梵天肌絵塾を設立している。

平成9(1997)年5月28日にはフリンジカルチャー研究で知られる宇田川岳夫によるインタビューが行われた。沖縄移住後は創作のテーマも土地に根差したものへと変化しており、ガジュマルの樹に宿る妖精として言い伝えられているキジムナーから見た第二次大戦中の沖縄というテーマで、再びマンガを描こうと思っていると意欲を語っている。

同年10月号より連載開始する「琉球の風と雲 サザンクロスギャング」(第一回のみ「琉球の風雲児」)は、沖縄での繋がりが深い旭琉會組織委員長桜一家 中村 實総長をモデルにした「村中ミノル」が主人公。前作がフィクション要素多めの大河ロマンだったのに対し、本作は実録アウトロー小説として米軍統治下の沖縄を舞台に少年期から第三次沖縄抗争までを描いている。連載は平成17(2005)年2月号まで続いた。

平成19(2007)年の春から秋にかけて、映画監督の丹野雅仁が凡天太郎の記録を残すべく、聞き取りを繰り返しフィルムを回している。この時の記録の中から、マンガ関連の話題のみを抜き出して編集したものが、凡天劇画会の最初の刊行物『梵天、かく語りき』である。

平成20(2008)年6月30日逝去。
三回忌に戦友の眠る沖縄残波岬に散骨され、七回忌法要は残りのお骨が守られている三重県四日市の青龍寺にて営まれた。

七回忌法要が行われた平成26(2014)年5月に、フランスの出版社Le Lezard Noirよりフランス語訳の劇画集成『SEX & FURY』(日本語版未発売)を発行。鈴木則文監督の「不良姐御伝 猪の鹿お蝶」の海外公開時のタイトルを冠したこの作品集は、ヨーロッパ最大級のバンド・デシネのイベント「アングレーム国際漫画フェスティバル」で、歴史に残すべき作品を選ぶ文化遺産セレクションである遺産賞にノミネート。

平成29(2017)年、英国バービカンセンターが主催のヨーロッパを巡回するアジア漫画展覧会「MANGASIA: WONDERLANDS OF ASIAN COMICS」に出展。

劇画誌『漫画パック』(芸文社)の表紙に使用された原画や「フーテンお京」のカラー口絵に使用された原稿などが展示されている。

平成29(2017)年10月7日~平成30(2018)年1月20日までイタリア・ローマのエスポジツィオーニ宮殿を皮切りに、フランス・ナント、イギリス・ロンドン、その後のスケジュールは未定だがヨーロッパ各地での開催が予定されている。

刺青界の異端児にして、マンガ界の異端児、そして番外地劇画の首領として、国外での認知を広めつつある。


特攻隊くずれでヤクザになって、
ヤクザくずれで絵描きになって、
絵描きくずれの演歌師から彫り物師になって、
それがくずれてまた絵描き、
くずれくずれてどこへいくってのが、あたしの運命でさあ

『文藝春秋漫画読本』1968年11月号掲載
加太こうじ「劇画屋風雲録」の一節「彫り清こと凡天太郎」より

(完)


映画『刺青』について

この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。

ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!



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