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母が死んでもうすぐ

母が死んでもうすぐ一か月になる。

死んでから、こんなに会いたくて仕方なくなるなんて思わなかった。
母がこの世のどこにもいないという現実が受け入れられない。
火葬場で見た骨も、ただの物体だったように思う。
声が、どうしても思い出せない。

そういうものかもしれない、とは、頭では理解していても。

***

母の病が見つかったのは、2022年6月。
初期の胃癌の手術の「ついで」に他の臓器も検査しましょうと言われて、末期の胆嚢癌が見つかった。ステージ4ですでに手遅れだった。
気丈だった母は泣きもせずに受け入れ、延命処置はしないでほしいと各所に伝え、財産を整理して父と入る納骨堂を買い、自分の葬儀の手はずをてきぱきと整えた。
私はと言えば離れて暮らしているから、毎週土日に母の住む家へ帰るので精いっぱいだった。何かできたわけではない。何もできなかったと思う。ただひたすら、毎週愚直に顔を見せに行くしかなかった。

今から思えば、まだ自覚症状がなかった夏には旅行にも行けたし、母の持つたくさんのレシピを聞き出すこともできた。
けれど、眠いと言ってソファで眠る母の顔を眺めるしかできなかった。
日曜の夕方、母をひとり置いて帰らなければならない時間は、身が引き裂かれるようだった。けれど車で一時間も走れば忘れられた。あれは一種の防衛反応だったのかもしれない、と今では思う。

冬、母は自分の症状を私に伝えなかった。
ほとんどひとりで生活できないだけになっていたはずなのに、家の中で何度も転んでいたようなのに、気丈な母は何も言わなかった。いいから仕事を頑張りなさい、としか言わなかった。土日には、買い物だけを頼まれた。母はにこにこしていた。

母と最期に過ごせたはずの12月のある土日、たまたま仕事が入ってしまった。どうしても優先したい仕事だったから、仕事に出るから帰れないねと母に伝えた。もうじき正月がきて一緒に過ごせるから、と私は気を抜いていた。母の本当の症状も、本当の気持ちもわからなかった。一回くらい、土日に帰らなくても大丈夫だろう、と。

そしてそのタイミングで私はまんまとコロナにかかり、10日間の隔離生活に入らざるを得なくなってしまった。あとから叔母に聞いたところ、母はとにかくショックを受けていたらしい。二度と私に会えなくなる、と言っていたそうだ。大袈裟かもしれないが、それは現実になった。母の住む家で母と会うことは、その後二度となかった。

私が隔離生活を送って一週間が過ぎたころ、母に黄疸が出て入院することになった。黄疸が出たらもう終わり、と私は医者に聞いていたから、その報を聞いたときに、ああもう終わりなんだと思った。
駆けつけることもできず、私は途方に暮れた。あの最後の土日に、どうして仕事に行ったのだろうと後悔しかなかった。
コロナが明けて、誰もいなくなった母の家に帰った時に愕然とした。きれい好きだった母の家はめちゃくちゃだった。台所では食べ物が腐り、毎日たたんでいたはずの布団も起きた姿のまま放置され、脱いだ服は床に散乱していた。食器はほぼすべて、割れるか欠けるかしていた。それほど母は辛かったのだと、その時初めて知った。ふつうに生活することすらままならなくなっていたのだ。

結局、母はそれからちょうど2か月入院し、亡くなった。
最期はせん妄が出ておかしなことばかり話していた。
母が亡くなった直後は、正直に言うと私はほっとしたのだ。母の世話と仕事の二重生活は、あまりにもきつ過ぎた。お金はわけが分からないほど出ていくし、車で3時間の往復は体力的に厳しく、母が楽しめないおいしいご飯を食べるのもためらわれた。

それにしても、と今になって思う。
本当に母が辛かった最後の日々、どうしてそばにいてあげることができなかったのだろう。立つことも食事をすることもつらかったはずだ。だというのに、コロナで高熱を出した私が電話口で「つらい」というと、「つらいね、しかたないね、がんばって」と励ましてくれた。ほんとうは、私が励まさなければならないはずだったのに。

母は、春まで生きたいと言っていた。
4月26日は母の誕生日。それまで生きたい、と。けれど叶わなかった。母が迎えることができなかった春を迎えるのは、とても苦しい。
母は、アルストロメリアの花が好きだった。
母が死んですぐ、花屋の店頭にアルストロメリアが並び始めた。あと少しだったのに。生きているうちに、見れなかった。
ピンクのアルストロメリアの花言葉は「気配り」。
周りに気を配ってばかりで自分のことはがまんして、母のような花だと思った。

***

後悔と苦しさで耐え切れなくなっているとき、ふと思うことがある。
この苦しみを味わっているのは私だけではない。
この世の中のほとんどの人が、同じぐらいか、もしくはこれ以上の苦しみを経験したことがある。愛する家族を亡くすということは、きっと誰しも避けては通れない。
母が死んで私を励ましてくれた人は、みんな、何をしてても後悔はするよと言ってくれた。その言葉は救いだった。できなかったことより、できたことを数えるしかない。
それでも、悲しい。

この気持ちがいつか消えてしまうことも私は知っているから、ここに書いて残そうと思った。私が死ぬまで、この後悔を忘れないように。
同じ苦しみを味わう人に、もしかしたらいつか、少しでも寄り添えるように。


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