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【エッセイ】作品における「考えるべきことの段階」が一段上がったかもしれない話
この1年間で発生したイベント、特に「祖父の死」「初の入院」「失業保険が切れて働かざるを得なくなった事」は「私が世間に向けて発信したいと思わせる動機」になって、現に優先すべき事(診断士の勉強)を中断して創作活動に熱中させてしまっている。
しかしそれは悪い事ではなく、むしろ「不意に訪れるチャンスを無駄にしない為」に良い事でさえあるといえるが、果たして自分の行動を合理化するための口実になってしまっているだろうか...
ともあれ、やるだけである。
さて、今は小説のログライン(「どんな作品?」を簡潔に表現する1〜2行の紹介文)を作っている最中だが、相変わらずにして私はストーリー構想が苦手なようで、やっぱり苦戦している。
個々のシナリオピースは面白い自負があっても、それらピースをカチッとはめられる様な「その作品を面白いと思わせる『作者の手腕の見せ所』」に加点材料を与えられずにいるのだ。
その為に脚本術の本を読んであれこれ考えてるのだが、恐らくは「私のものの考え方のクセ」に起因しているのだろうと考える事がある。
時にメタ的・マクロ的な見方はできても、大筋において「(半ば独りよがりで決めつけがちな)ミクロ的・枝葉末節にこだわった見方」になってしまう所だ。
それだけならその他大勢にも該当しそうだが、私の場合そこに「突飛なイマジネーション」と合わせて「そうそうなさそうなシチュエーションをあたかも起こった・起こりえると想定する『仮説をすぐ採用してしまう点』」が加わる。
「思慮が浅く時期尚早なタイミングで採用・実行してしまうクセ」は衝動的というほかなく(「他者にネガティブな影響が及ばない場合」に限定されるとはいえ)、結果として「長巻の構成に苦戦する」ことになるのだ。
(なんならその結論すら熟考せず導き出している「恣意的な所感」かもしれないのだが)
そうしてその時々で衝動的に思いついたネタを書き綴ることはできても、それらを貫く「一本(あるいは複数本)の軸」を据えられずにいるのだ。
だがそれは見方を変えれば「ネタに共通する本質は粗方出尽くした」とも言え、フェーズは次の段階・「後はそれらを『かっこよく・面白く・考えさせる・感動させる』様に組み立てる段階」に移ったとも考えられる。
つまり、考え方次第では「『軸に据えるべきエッセンス達』はこれまでに考えついたネタたちの中に既に出そろっている」と言えるのだ。
「それまでネタだしに専念していたから『次段階・ピースの配置』の経験値・ノウハウがまるっきりなくててんやわんやしていただけ」で、例えるなら「短距離走で県 1 位がとれたから、それまで鍛錬してこなかった長距離走もすぐ 1 位になれるはずだ」と考えているのと同じなのだ。
「鍛錬がなくとも実力がある『才能を持っていた場合』」もあるだろうが、生憎私はそちら側ではなく「実力がなく鍛錬を通して身に着ける必要がある『才能を持っていなかった場合』」だっただけなのだ。
そして「考え方のクセ」はコインの表裏で場面次第でどっちにも働くが、それは同一の条件・環境の場合。
こと構成に関しては単純比較できる状況・環境じゃなかっただけで、つまり「上手くできなかったのは、それまでやってきたことと体系的に異なるものを取り扱う訳だから、仕方なかった」のかもしれない。
よって構成や展開の構築にあたってネタだしとは違ったアプローチ、例えば「自身の作品が該当するジャンルの秀作の展開・構成を分析する事」が必要なのかもしれないのだ。
「原理・原則を、超えるべきを知ってこそ、面白さ=新規性は獲得できる」のだろう。