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【エッセイ】「人の賢さを構成する『品性』」とは何か?

品性とは何か?

「普通に生活していればそう考える事の無い内容」ではあるが、かといってそれなしに社会生活を営む為はできないだろう。

なぜなら品性とは「『他者との関わり方』の程度を示すもの」なのであり、現代社会で生きている以上否応なしに人と関わらなければならないからである。

そしてそれは物心がついた時から他者とのかかわりの中で培われ、一般常識や暗黙の了解の様に「対人関係の潤滑油」として機能しているのだ。

しかし中には「『自分さえよければいい』と考える人」はいて、他方で「羨まれる様な人間関係を構築している人」もいるのだ。

そういう人を見て私は「自分とその人とで何が違うのだろうか」と疑問に思い、ここでこれまでに得た「僅かな清濁併せた経験」と「物書きを志してから手に入れた少し知識」をもって、かねてから抱いていた「品性とは、賢さとは何なのか」について考え言葉にしてみようと思ったのだ。

知性と品性によって人の賢さは構成されている

まず前提として「人の賢さは『知性と品性』で構成される」と仮定する。

つまり賢さは「知性と品性の豊かさ」で計る事ができ、その程度が高い程「想像力や直観力、可能性等のパラメータは豊かである」と言え、その結果として人類史で尊ばれる「重要で価値ある種類の実績・知識・関係」を獲得する事ができると考える。

この実績・知識・関係の解釈の出典は、「『死』とはなにか(シェリー・ケーガン著)」で取り扱われた「ハーバード大ロバート・ノージック氏による思考実験『フルダイブVRの様な人生は人間存在の仕方として最も望ましい形態なのか』」にある。

例えば「月面着陸の様な実績、新たな物理法則の発見の様な知識、唯一無二の愛的な関係」は、それに伴う賢さがあって獲得される訳である。

その上で、知性は「何らかの情報を自らの知識として扱う事ができる力」品性は「(知識を含めて)自らが持っているモノをどのように扱う事かを考慮する力」であると仮定する。

例えば知性が豊かな人は「豊かな好奇心や興味・関心に由来して『問題解決能力や言語化力、記憶力等』の点」で秀でていて、品性が豊かな人は「他者への思いやり・慈しみに由来して『不快にさせない所作や適切な言葉選び、余裕を思わせる徳・善さ等』の点で秀でているという様に。

そして特に「価値ある種類の関係構築」は、「『他者との関係性における余裕・信頼・胆力』を司る品性が占める比重が大きい」と考えられ、故に「賢さの程度(知性と品性のバランス)に比例して円満な対人関係の構築・維持の難易度も変化してくる」と仮定する。

また「知性は知識によって、品性は経験によって培われる」が、それに限らず「経験が知性を、知識が品性を培う場面」も容易に想像できる。

例えば「『ある知識を仕入れてから、実際に経験に臨む事』で品性が培われる」とか「『失敗の経験から反省点を考察して綴る事』で知性が培われる」と言った場面が挙げられる。

以上の前提をまとめると次のようになる

(本筋から離れる為詳細は省くが、恐らく品性は知性の次に獲得され、客観的利己システム(群集動物的本能)が確立されて以降、人類の秀でたコミュニケーション能力をフルに活用した文明の萌芽に寄与したのだと考えられる。

結果「個々人の関係が単純な足し算以上の『指数関数的な相乗効果』を発揮し、人類が『他の動物に見られない賢さ』を歴史に映し出してきた」のかもしれない。

これは機会があれば別記しようと思う。)

品性がなかったら人生終了?

ここで注意したいのは「賢さは知性と品性の上に立っているという事」。

静止した2輪バイクや建物の柱や積み木でもいいが、「『その片方だけが突出した様子』に著しいバランスの悪さ」を感じない者はいないだろう。

知性が「どれだけ道具の使い方を知っているか」であるとすれば、品性は「持っている道具をどう使うか」を意味するのだ。

日常生活でさえその賢さは一定水準以上が求められ、特にいずれの人類にとって価値あるモノは知性だけ・品性だけで獲得できるものはなく、その上漏れなく高水準が求められる。

つまり「豊かな知性(あるいは品性)に対して幼い品性(あるいは知性)しかもっていない者には『そのままでは獲得できるものはいずれ頭打ちになる将来』しか待っていない」のである。

これは他ならぬ私の事であるが、しかし、ある意味でこれは僥倖ともいえる。

なぜなら「その獲得に順番も早い遅いもないから」である。

「品性は『道具をどう使うか』を考える能力である」といったが、それは道具を知らなければ意味がないのだ。

なので、こと知性が求められる社会において「ある程度の知性はあるけど『自信をもって品性が備わっている』とは言えない人」であったとしても、「既に賢さの素地が出来上がっている」と考えていいのだ。

無論だからと言って「品性の習得をしなければ賢さも価値あるモノも手に入らない」ので、鍛錬は怠ってはならないが、悲観し過ぎる必要はないのである。

表現の仕方や言葉は違えど、いずれの賢人もが共通して言う言葉に「人生、何でも遅すぎるという事はない」というのがある。

余裕がない時にこんなことを言われても「知った様な事を…」と思うかもしれないが、しかし「人の可塑性において、誰でも何時からでも成長できる」という事実から、私はこれは確かであると思う。

「知性の豊かさ」だけが賢さだと思ってない?

さて「賢さは知性と品性で構成されている」、「その両方をバランスよく培う事で『人類における価値ある種類の実績・知識・関係(多くの人が求めるモノ)』は得られる様になる」という事を前提に話を進めるが、これは品性に欠ける人、つまり「『何故頭はいいのに人間関係がめちゃくちゃな人』がいるのか?」を考えるとわかりやすいかもしれない。

例えば「世間一般的に『賢さとは知性の程度である』と考えられている」が、それこそが斯様な人が生まれる原因だと考える。

つまり「『品性(経験)を軽んじて知性のみを追求してきたから』なのではないか?」と私は考えたのだ。

世の中は世知辛く、人にやさしくとかいう割には「挙げればキリがないくらい存在する『一般常識とか暗黙の了解と呼ばれるもの』を遵守する事」を要求し、それには一定以上の賢さが求められる。

それでも今社会が回っているのは「人口比でIQが100±20の人(賢さが要求水準以上ある人)が大多数を占めるから」で、そこからあぶれたものは「獣か『生産性が期待できないと判断された福祉における保護対象』かニート」としてしばしば心無い冷ややかにして不遇な扱いを受ける事になるのだ。

多くの人は周囲の人からそうなるまいと諭されていい大学に入るとかいい企業に入る事ばかりに心を砕き、その後もいい成績を出す事だけに時間と労力を投じる事になる…

結局「誰もが『他者に見下されない様にしなければ』という緊張・焦りを抱いている」のだ。

その緊張・焦りが「本来自分がしたい事を犠牲に『履歴書に書ける様なガワだけ』を拡大する人生」を歩ませ、燃え尽き症候群や過労死、自殺と言った不和が生じているのではないか?

そういう訳で「『諭されるままに上を目指すだけ』で、立ち止まって考える人が少ない」のもまた問題であるが、その根本に「賢さは知性だけが構成すると考えられている事」があるのではないだろうか。

それが悪いと言うつもりはないが、品性を学ぶ場として用意されている「義務教育における道徳」や「ビジネスマナー」の様な物がまさに「品性を知識として捉えている証拠」なのではないかと思う。

確かに知識を得るのに対して経験を得るのには時間が掛かる。

こと詰め込み型の教育を指針にしている環境では「『実践で観測される経験』を知識として与えた方が効率的」ではある。

それに当然時の教育の質や重んじる内容はあるから優先順位的に「品性の如何なるものかを教える機会」が繰り下がっていくのはわかる。

しかし「道具の使い方がお粗末な人が多い様子」からは、現行の教育体制は改善される必要があるのではないかと思われる。

では何故その様な「品性(経験)に乏しい人」が多く存在する事になったのか?

大きく2つの原因が考えられる。

つまり「経験が持つ『誰かから教えてもらえない、自ら味わっていかなければ得る事ができないという特性』に由来しているから」、そして「社会環境に由来した品性を培う為の経験を得る時間・資金・資源の余裕が少ない(あるいはない)から」である。

今は何にしても効率が希求される時代で、「少ない投資で何かを獲得する事」が強く求められている。

どんな小さな無駄もそぎ落とすべくしのぎが削られ、そのしわ寄せが末端に押し付けられているのは最早そこかしこで見受けられる。

『経験を積む余裕がないくらい逼迫した日常』を送っている人があまりに多い」という事なのだ。

「品性にも知性と同じく価値があるにもかかわらず『品性を培う余裕』が用意されていないこの不合理」は、陰謀論的だが「政府やメガバンク、メガコープが末端市民を『操作しやすい使い捨ての機械部品』にする為に強いている」のだと私は見ている。

よって、ここにある本質的問題を解決するには「環境に根差した『経験を積むための時間・資金・資源的余裕』をもっと用意しなければならない」という事になる。

無論これは独力では解消できそうにない規模の問題であり、それこそ「崩壊学の範疇に含まれる話題」なので、これもいずれ別記しようと思う。

経験の特性から考えても、「失敗の場面に際して足りない事を痛感して、ようやくその価値に気付き、先人の遺した知恵にあやかるという『失敗在りきの道』を強いられているから品性の乏しい人が多い」のだと考える事ができる。

しかし、そうはいったがこれは必然なのだとも思う。

なぜなら「経験は客観的知識では伝えられず、主観的な成功や失敗を経る事でしか蓄積できないから」だ。

知識は伝達できるが、経験は失敗を含めて自分の身で味わう他なく、その為に事前知識として先人のコツや叙述伝が存在するのである。

この経験こそは「クオリア」と呼ばれるものであると個人的に解釈しており、故に「暗記パンやマトリックスに出てくる仮想領域での技術習得」が羨望され夢に見られるのだろう。

そしてこれに関しては「実際に自分の身をもって『それがどういう意味を持つのか』を経験しなければならない」という経験の特性上、多くを語る事ができない。

だが確実なのは、「品性の豊かな人はそれだけ『自分がこれをすれば他者はどう思うか』を考えてきた」という事。

それは個人的な数々の失敗や家族や職場の人からの指導があった事を示し、それだけで利他的な人生を歩んできた事を表すと言えよう。

関連して、出典は忘れたが「その人を作っているのは『それまで一番考えてきた事』で、それが態度や言動や行動はとして外側に表れている」という言葉は、豊かな品性を目指すうえで指針になるに違いない。

余裕・信頼・胆力を感じられるから話してみたいと思えるのかもしれない

話は戻って、対人関係に賢さが必要だとして、「他者との関係性における余裕・信頼・胆力」を実現するには、具体的にいくつかの特徴的な行動・態度が考えられるかもしれない。

傾聴はその一つであると思われる。

「対話における自己開示」は関係構築で必要なプロセスではあるものの、そこには「『承認欲求の満足』という薬」が潜んでいるのである。

要は「自己開示という薬は用法・用量を守って使う事で、最大の効果を発揮する事ができる」のだ。

例えば、会話では「多くしゃべる方が気持ちいい」のであり、反面話者を譲るのは「欲を抑えられる余裕の証左」を示す。

そしてその余裕が「『この人は私をわかってくれようとしてくれている』という信頼の醸成」につながるという事なのだろう。

加えて「『どっちつかずの宙ぶらりんの状態を耐えられる』という意味の胆力」が相手の印象を決定づけ、それができない奴は「自分の欲に負けた利己的な奴」として周知される訳である。

高田純次は「年を取ってからは『説教・昔話・自慢話』をしてはいけない」というが、これは相手に「『わざわざ時間を奪って話した内容から何が言いたいのか?』と相手に不快感を与えかねない」という意味で「全年齢帯に対応する品性における真理」であると、今にして思える。

「『してはいけない話を心得ている大人とそうではない大人』とで感じられる雰囲気が違う」のは、「単純な情報交換以上の余裕・信頼・胆力の提示」があるかどうかに他ならないからなのかもしれない。

品性を身に付けるとは「思いやりを常駐させる事」

だがその根底にあるのは「理性(利他)的に考える習慣が身に付いているかどうか」なのかもしれない。

結局「『自分が採る一挙手一投足は、相手にどの様な印象を与えるだろうか?という思考』が無意識に常駐している事」が品のある振る舞いなのかもしれない。

「『意識するまでもなく自然と利他的な行いができる事』こそが品性の豊かさ」なのかもしれないのだ。

これまた出典は忘れてしまったが「感情の使い分けはできない」のであり、つまり「いざという時だけいい風を装っていては、肝心なところでメッキが剥がれ正体が露呈する」のだ。

故に「『常に心掛け実行する事=習慣化する事』で、いざという時にチャンスをものにできる」のだろう。

あるいはこれは「一朝一夕では身に付けられない過酷な道」を暗示する辛い現実になるやもしれない。

だが、一方で世の多くの品性を身に付けている人はその道を歩んできたのであり、勇気づける事を考えるなら「『自分に品性が乏しいと認識していて、かつその習得に時間が掛かるという事を認識できている人』は更に少ない可能性が高い」のだ。

この可能性はそうではない人との差を圧倒的に開く事ができる強さなのではないだろうか。

故にするべきは「失敗上等で品性的実践の継続、ただそれだけ」であり、さもなくば品性は身に付かないという事であろう。

「品のある人とない人」の違い

さて「『他者との関係性における余裕・信頼・胆力』ひいては『利他的に考える習慣』が価値ある種類の人間関係の正体」だとして、「それは世間でどう機能しているのか」も考察してみよう。

例えばある職場に「一定の知識(知性)が備わっている『Aという人』と『Bという人』」がいて、彼らにはただ一点「品性の程度の差」があったとして、「同僚あるいは後輩からトラブル解消の相談を持ち掛けられる場面」を考えてみる。

この時、Aは「『してはいけない話』はしないし、傾聴も熟慮された発言もできる人」、BはAとは対照的に「周囲には辟易する話ばかりをして、他者の話は『自分の話をする為』に聞き、発言も相手からの印象を顧みない恣意的な人」を想定する。

Aはまず状況を把握する為に傾聴に徹し原因を明らかにした後、その解決策の提示と共に相談者の反省点をあくまで再発防止の為に、それでも人格否定をしない様に態度と言葉を選んで説明し、Aに余裕があれば(あるいは自分の仕事をさっさと片付けて)相談者が自律できるまで支援するだろう。

他方Bは「そんな余裕ない、他を当たれ」と嫌な顔をして断るか渋々応じ、最低限の助言だけをして終わるだろう。

加えて懸念されるのは「俺ならこうやったのに、なんでそんな非効率的な事をするのか」と説教を垂れ、さらには後学の為と言って、あるいは何の脈絡もなく「そういえば俺昔似たような場面でさ~」と自慢話や昔話さえ始めるかもしれない。

相談している側にすればうまく立ち回れなくて辛いのを一番わかっているのだがBはそれを考えもせず、あまつさえどうでもいい話に付き合わせるのだ。

はっきり言って聞く側には苦痛なのであり、「仕事だから止む得ず同じ空間に居られるだけ」なのだ。

そしてそれは「Bには利他的に考える習慣がなかったから」それが聞く側にとって苦痛なのだとは考えもせず、ある意味必然の結果なのである。

その他「自らの仕事に対するスタンス」や「人生におけるスタンス」にも関わってくるだろうが、ここでは本筋から離れる為、いずれ場を用意してそこで綴る事にしようと思う。

「品性とは何か」を考えさせてくれたあなたへ

最後にTさん、私はあなたに謝罪をしなくてはならない。

私は、自分の事だけしか考えていない多くの行いを、あなたを使って「自分が気持ちよくなる為の行為」をしてしまったのだ。

その結果、私は「言う必要のなかった酷い言葉」であなたを突き刺してしまった。

これは純粋な人間関係において絶縁以上の破壊力を持ち、許しを請う事も弁明するつもりもない。

しかし勝手ながら「この経験を人生の糧にしよう」と思う。

これさえも自分のことしか考えていない行いだろう。

だが最後のわがままとして、「『私の座右の銘』においてこの文章を手向けとさせていただきたい」と思う。

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