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プリコラージュ -IDOLIZLED- 輝きに隠された本物の闇

「プリコラージュ -IDOLIZED-」は、HIJIKI氏により制作されたアドベンチャーゲームだ。
失踪したアイドルを追って、プレイヤーはネットの海を渡り歩く。

本作は、簡単にまとめると「ネットの負の要素を極限まで詰め込んだゲーム」だ。
誹謗中傷、特定、犯罪行為、ストーカー…。
ネット社会の負の要素をあらゆる角度から思いっきり突っ込んだゲームは、いまだかつて見たことがない。
学生時代、よくある「SNSの使い方には気を付けよう!」というテーマを出してやる道徳の授業。
本作は、アレに学校教育では表現できない要素を混ぜ込んだ、バケモンみたいなゲームだ。

本作では、突如失踪したアイドル「セナ」の失踪の理由を追っていく。
単純に証拠を探して追っていくのだが、本作ではその証拠が転がる場所が「ネット上」となっている。
ここがそもそもおかしい。
SNS上で人を探すという行為、ましてやアイドルを探すなど、個人情報にはかなり気を遣うから到底無理なのに、それでも追えてしまう。
しかも、特定方法も「スプーンの裏に映っている景色」とか、「使っているコンシーラーのメーカー」とか、「周りに映っているもの」とか、普通ならあまり気にしない部分だ。
気にしない部分を見るという、あまりにもリアルな探索方法が怖すぎる。
アイドルを追うという背徳的な行為も相まって、あまりにも実現できそうな内容が恐ろしく、SNSの恐怖を身近に理解できる。

何より恐ろしいのが、SNSの恐怖を「検索する側からも検索される側からも知ることができてしまう」点だ。
本作は自分がセナの失踪を追う側になっているので、セナの情報をしらみつぶしに探していくことで、セナの住所や学校まで特定できてしまう。
セナ自身の管理の問題もあるのだが、それ以上にこっちが追いかけようと思えばそこまで判明してしまうところも、大きな問題点だ。
さらに、プレイヤーはセナの情報を追っていくと「セナが愉快犯じみたネトストに追われていたこと」「そのネトストが自室に忍び込んでいたこと」が判明する。
犯罪であるという前提はあるにしても、あまりにもリアルで狂気的なネトストのSNS写真の数々に、背筋が凍り付いた。
愉快犯であるという短絡さも恐ろしいし、何よりそれを平然と(鍵付きとはいえ)SNSにアップロードできるという、あまりにも壊れた倫理観を隠しなしで思いっきりぶつけてくる。
そして、本作はセナを追う自分の追う側の恐怖と、愉快犯を通してみる追われる側の恐怖、どちらも見ることができる。
SNSという普段身近に使っているものだからこそ、追う側にも追われる側にもなり得てしまうという、二重の恐怖を感じた。

特定以外の部分でも、本作はネットの恐ろしさを如実に示す。
本作の恐怖心を助長するのは、「界隈とファンの感覚」だ。
本作はアイドルであるセナを追うので、自然と彼女のファンやアンチの発言を見かけることがある。
彼らの発言は、驚くほどに解像度が高く、セナという存在の大きさを否応にも自覚させる。
ファンが大金をつぎ込んでグッズを買い、記念日に超豪華な写真を撮影する一方で、セナの些細な変化に気づき、「私のセナはこんな存在じゃない」と語ってズタズタに引き裂かれたグッズが映る。
一方で、アンチはセナが投稿しているSNSとは別のもので、ボロクソにセナを批判し、「今セナ探してるよ」「罪を突き付けてやる」と〇害予告のような発言を繰り返す。
彼らの発言はただ薄っぺらくファンやアンチとして存在しているわけではなく、本気で彼女に向き合っている、ある種信者のような狂気性を感じさせる。

特に象徴的なのは、ファンの病みツイートにある「私が尽くしたセナを返して」「何のために私 臭いおっさんと寝たの」という文章だ。
文章自体のパンチもすさまじいが、重要なのが「この少しの文章に、あらゆる社会の問題が内包されている」という点だ。
わかりやすいのが「売春行為」と「熱狂的な推し愛」だろう。
特定の人をあまりにも推してしまうがゆえに、自分の体を売ってでも金銭を稼いで押しに貢いでしまう。
人と人との繋がりが希薄になっている現代社会だからこそ、ネットでつながる社会だからこそ、こうして推しという存在を見つけ、盲目的に邁進してしまう。
それが常識的範囲まで抑えられるのならともかく、売春まがいのことをしてまで推しに溺れてしまうのなら、本末転倒だ。
自制の問題として見るべきなのだろう。

しかし、ファンはただセナに尽くすためだけに、パパ活まがいのような行動に出たのだろうか。
ここには、SNSの汚点の一つである「承認欲求」がある気がしてならない。
今やネットに限らず、社会全体で重視される「誰かからの承認」、つまり承認欲求は、癌のように私たちにまとわりつき、悩ませる。
周りから認められるために彼氏彼女を作り、何か好きなものに異常なレベルで金を投資し、普通からかけ離れた行動をとる。
全てが全て原因とは言わないが、原因としてありえるのが「承認欲求」というバケモノじみた人間的欲求なのだ。
そして困ったことに、それが最も顕著に出る部分がインターネットなのだ。
ファンは、インターネット上の他ファンのコミュニティやアイドル本人のSNSを通じて、「自分を誇示すること」で自身を表現しようとする。
本当に好きのレベルを超えてしまってそれを自分の一部として自認してしまったとき、それはアイデンティティとして個人の生活に纏わりつく。

ファンは、おそらくセナのファンであることを自身のアイデンティティにしていたのだろう。
それを誇示する方法が推しの誕生日に大量のグッズを並べて写真を撮ることであり、そこにかける資金も自分を表現するためなら安いものだったのだ。
つまり、彼女は「自分の存在意義を守るために自分を売った」のである。
自分のアイデンティティを用意しないと意見に流されたり、発言することすら許されないような社会。
そんな「芯」を要求される社会だからこそ、ファンはセナを芯にし、全てを費やしてしまったのだろう。
プレイヤーがコンタクトを取った際、「もう降りる」「これ以上セナの事考えるのしんどい」と言い放った彼女は、今どんな顔をして生きているのだろうか。

ここまで、本作の社会的な恐怖を徹底的に語ってきた。
本作のモチーフの「ネットの恐怖」がバラまかれている点は現代社会として身近に同じ状況が存在するだけあって、末恐ろしい。
社会的な問題をしっかりと内包している。

…が、実は本作の本質的なテーマはそこではないと思う。
私が最も重要視しているのは、なり代わりによって起こった「アイドル化」である。
これを語るには、本作のラストを説明する必要がある。
簡単にまとめてみよう。

本作では、ストーリー中盤でSNSを追っていたのが記憶喪失のセナ本人であり、何者かがセナになり替わって気を失っていた間活動していたことが判明する。
そして、その人物はセナの親友であり、同じオーディションで落とされた後もセナを応援していたエミカであった。
エミカの活動を知ったセナは、病院にエミカを呼び出す。

本作は、ここで物語が分岐する。
一方はエミカの努力を認めてあげたうえで、セナがアイドルとして復帰する物語、つまりハッピーエンドだ。
もう一方はかなり衝撃的で、セナがエミカを認めつつも、「エミカが続ければいいじゃん」「私がプロデュースしてあげる」と言い放ち、エミカをセナとして続投させ続けるというエンディングだ。
これ、どちらが本作が意図していたエンディングなのだろうか。

…私は、後者が意図していたものであると思う。
客観的な意見を述べるのなら、エンディングの順序として後者が後ろに配置されていること、そして両者ともに同じエンドロールが流れることが理由だ。
しかし、もっと内容を中心に考えてみると、このなり替わりを続け、狼=プロデューサーとして羊=アイドルを操作することこそ、本作の本質的な「IDOLIZED」なのだろう。
ネットの闇を見続け、自らもセナを追うという闇に近づく行動をとったからこそ、暗い感情を持ち、エミカという影武者に全てを任せようとすることはあまりにも現実的で合理的だ。
セナの言い放った「申し訳ないと思うなら、最初から成りすましなんかしなければよかったのに」という一言には、アイドルに対する彼女の強い失望が詰まっている。
光あるところには影あり。

しかし、このアイドル化というのは、セナがエミカを操作することだけが重要ではない。
最も重要なのは、セナがエミカの自由を一方的に奪っているのではなく、エミカの方が先にセナから「アイドル」を奪っているという点だ。
エミカは少なくともセナというアイドル像を殺さないために、「善意で」セナになり替わり、「善意で」活動している。
しかし、これはセナにとってみればアイドルとしてのセナ、つまり彼女のアイデンティティを「奪われた」わけであり、あまりにも非道だ。
セナが仮に戻ったとしても、ファンがセナとエミカの違いを見破ったように、エミカだったころのセナのファンは違和感に機敏に気づくだろう。
そうした諸問題を、彼女たちは無視できない。
それを如実に表しているのが、セナの口から出るエミカのなり替わりの継続なのだろう。
先に挙げた「申し訳ないと思うなら、最初から成りすましなんかしなければよかったのに」というセリフは、アイドルに対する絶望だけはなく先にアイデンティティを奪ったエミカへの強い怒り、嫉妬のような感情も含まれているように思う。

こうした点を見ると、私は本作を「ネットの裏側や闇を見つめるゲーム」ではなく、「アイデンティティの喪失を考えるゲーム」ではないのか、と思う。
本作はネット社会の残酷さを如実に示しているが、それ以上に後半では容赦なく個人のアイデンティティを踏みにじり、破壊するという残酷な行為を表現している。
個々人の意思や行動が高く尊重される現代社会において、「自分の芯を奪われる、批判される」というのは、もはや人間の尊厳破壊と同じだ。
そのような尊厳の破壊を黙って受け入れるというのは、たとえ相手が善意で行動したとしても到底許せることではない。
本作のエンディング7ではいかにもセナが狂人のように描かれるが、本質的な部分を見ると、セナに同情できる部分もある。

しかし、大前提として本作のアイデンティティの喪失はあまりにもシチュエーションが特異的すぎる。
自分がアイドルであるという状況があまりない上、事故による長期の活動不能や記憶の欠如、友人によるなり替わりなど、普通ではありえないシチュエーションが頻発している。
これを見る限り、自分たちに当てはめるような話ではなく、教訓みたいに傍観する視点で「アイデンティティって大事だな~」と思っておくぐらいが適切なのだろうか。

…実はそうとも言い切れない。
というのも、本作にはセナと(一部エンディングの)エミカ以外に、もう一人「アイデンティティを奪われた人物」が存在するのだ。

その人物は、「絶望したセナのファン」だ。
ファンとセナの立ち位置は、ファンとアイドルという全く違う立場でありながらも、アイデンティティを奪われたという一点において同じである。
ファンはエミカに(間接的に)セナというアイドル像とファンとしての意義を奪われ、セナはエミカに自分自身の存在を奪われた。
状況は違うが、自身のアイデンティティを奪われたことで絶望している結果に違いはない。
何より、両者ともにアイデンティティを奪われたと自覚した後には、アイドルに対して「どうでもいい」という感情が見受けられる。
自身の価値を見失ってしまうために、無気力や狂気的に見えてしまうのだろう。
彼女たちの諦観に近い感情は、アイデンティティを失った人間なら十分なりうる状況だ。
我々にも十分ありえてしまう。

社会の恐ろしい裏側の本質性以上に、「自分の存在意義を奪われる恐怖」ほど恐ろしく絶望的なものはない。
あなたの存在は何によって立てられ、何によって維持されていますか?
あなたの存在は誰かに捨てられたりしない、強固なものですか?

あなたは、自分を守れますか?


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