Inverted Angel 彼女はいつでもドアの向こう側にいる
「Inverted Angel」 は、SCIKA氏により制作された推理ゲームである。
記憶喪失の主人公の前に現れた謎の女の子と会話していくことで、真実を突き詰めていくゲームだ。
私は、そもそも本作を「AIを用いたゲーム」として注目していた。
「ドキドキAI尋問ゲーム」に代表されるような、AIを用いた会話によって作品を楽しむような、自動生成の面白さを用いたゲームだと思っていた。
目を引く女の子のビジュアルも見事でツボに刺さっていたのだが、それ以上にAIを使ったゲームに興味がわいて、遊んでみようと思った。
実際触ってみると、本作の手ごたえは全く違った。
AIが出すのは自分の回答をニュアンスでくみ取るぐらいで、会話は基本的にゲーム側が定めたものになっている。
ニュアンスから外れた単語や文章は、本作では「しっくりこない」という言葉で片付けられてしまう。
私は本作をビジュアルノベルのように思っていたが、実際はどうもAIを用いた「自由律文章の推理ゲーム」だったようだ。
しかし、本作の素晴らしい点は推理ゲームとしてみると恐ろしいほどに際立っている。
というのも、本作は推理する部分が終始「自分とインターホン越しの彼女の関係」であり、そこに対して自由な文章を記述することができる。
ある程度筋道は誘導されるものの、本作は自由な関係性をプレイヤーが想像することができるのだ。
そして、その想像が文章やもので押し込まれていないことで、ぶっ飛んだ考え方も許されてしまう。
彼女が「宇宙人」だろうが「メンヘラ彼女」だろうが、はたまた「知らない人の彼女が勘違いしている状態」だろうが、全て「ありえてしまう」のだ。
このゲームは根本的にストーリー全てが見えずに作られているからこそ、自由にその話を生成することができる。
それが合っていようが違っていようが、そこで想像する話の面白さは自分の心に残る。
その思考回路の広さに脱帽した。
…ゲームの根本的な驚きに対しては、おそらく自分よりもうまく書いている諸氏がいらっしゃると思うので、そちらを参照いただくとして。
本記事では、改めてこのゲームの中心人物である「女の子」を起点として、伝えたかったことを考えてみたい。
本作は、基本的には「インターホン越しに女の子と会話をする」という内容だ。
プレイヤーは、記憶を喪失しているから、話を合わせながらその女の子が何者なのかを分析しなければならない。
だからこそ、その彼女もめちゃくちゃ独特である。
彼女はいかにもゆめかわな衣装を着て、インターホン越しにドアをガンガン叩いてくるような、いかにもな病み少女だ。
真っ先に「Needy Girl Overdose」の「あめちゃん」がよぎってしまうような、危なさとかわいさが同居したような女の子である。
実際、彼女との会話の内容はほぼあめちゃんとしていたそれに近い。
改めてクリアして思うのだが、彼女との会話は宙を舞うような独特さがあり、何を掴んでいるのかはっきりしない。
哲学的な雑談がいたるところに仕込まれていると、彼女との会話では海辺でわけのわからないような話をしているような、そんな気がする。
それが彼女の目的のためのハッタリなのか、ゲームが伝えたいことなのか、それともただ彼女が好きなのか、それはわからない。
ストーリーのワンシーンでは、彼女が心理学を学んでいて「そういったことに興味がある」と語られるときがある。
本作はシステム上エンディングが複数存在し、そこで「プレイヤーと彼女の立ち位置が変化」するため、あくまでその物語での彼女でしかないのだが、この発言は彼女の会話の複雑さを助長するようなものだ。
それが全体に通じるのなら、ただ単に「彼女が好き」なんだろう。
しかし、彼女と話しているときの感情はあめちゃんのものとは大きく違った。
過去の記事で散々言ってきたが、私はあめちゃんのことを「インターネット上の虚構」と呼んでいる。
あめちゃんは掴みどころがなく、同情させるようなふりをしてインターネットの全てをまき散らすような女の子だ。
彼女とのやり取りは全て破滅するわけだし、共感を求めるようにこちらに語り掛けてくる彼女を見て、虚構にしか思えないような空虚さがあった。
しかし、インターホン越しにいた本作の彼女は、主人公が話す立場にあって会話が成立しているからか、インターネットの虚構とは思えないほどに中身があった。
主人公と対話していて、主人公側にもセリフがあることで、対話としてプレイヤーが認知できる部分も大きい。
対話が存在することで、プレイヤーも彼女がしっかりと存在していることを自覚することができる。
…いや、違う。
正確に言えば、彼女は「もともと中身なんてない」のだ。
そして、何よりプレイヤーが「それをわかっている」し、プレイヤーが「物語を推測する自覚がある」から、彼女の中身がないことなどわかりきっているのだ。
その環境で、彼女が難しい話をしようがなんだろうが、しょせん彼女は「ゲーム上のマネキン」でしかない。
一般的なゲームを見てもプレイヤーの指示に従うマネキンなのかもしれないが、本作は彼女との関係を推測してそれを答えとして提示するわけだから、プレイヤー側が強く「彼女は俺の妄想を叶えるマネキンである」と自覚する。
彼女との関係性がなんだろうが、彼女との会話がいかに難しかろうが、プレイヤーはそれを飲み込んでしまう。
自分がわからなくても、主人公が理解しているから。
プレイヤーがその話を理解できないとしても、「俺の考えた通りに彼女は動いてくれる」から。
だから、本作は、彼女が存在しているように見えて、実際はプレイヤーが彼女を操作しているような、そんな構造図に見える。
では、彼女の本質とはいったい何なのだろうか。
彼女は色々な姿をプレイヤーに見せるが、その本質性は語られない。
プレイヤーが誘導される結末は、どれも共通している要素があるわけではなく、絶妙に違った観点で結末を迎えている。
表面上では彼女はどのルートでも共通することはなく、プレイヤーの対話相手として全く違った姿を見せつけてくれる。
単にマネキンとして見なすなら合理的で、これをゲームとして見るのならなおさら合理的なのだが、それなら彼女の独自性は存在しない。
しかし、彼女は唯一共通する要素として、どのルートでも小難しい話を主人公と繰り広げる。
彼女の話はあまりにも知的で哲学的で、どれだけ頭が良かろうとも(見た目とのギャップも相まって)困惑する。
彼女がどんな存在になろうとも、その特徴は決して変わることはない。
狂った殺人者だろうが、ちょっと切ない愛情を持った女の子だろうが、その事実だけは決して変わらない。
しかし、彼女をマネキンであると自覚できる構造を用意するのなら、こんな難しい話をいたるところに配置する必要はなく、ただ事実を述べていればいい。
では、なぜ彼女は、そんな話を延々としていたのだろうか。
私はそれこそが彼女の本質で、プレイヤーが最後に直感的に感じた「天使」という言葉に内包されているのではないか、と思う。
本作のラストは、彼女が「なぜか天使に見えた」主人公が、この夜が無限に続く理由を彼女に向けて答えるというものだ。
この回答を載せることはできないが、この回答を自分の中で落とし込むこと、それが本作の根本的な答えなのだろう。
彼女は多分天使で、多分マネキンで、多分俺の彼女だ。
彼女との最後の会話は、居心地のいい、例えるならそう、彼氏と彼女の朝焼けの中でのピロートークのような、宙を舞うような感覚があった。
こんなことを言ってしまっては元も子もないのだが、彼女は「何者であってもいい」のだ。
思考放棄をするように見えてしまうが、彼女がどんな存在であろうが、インターホン越しに彼女はいて、主人公であるプレイヤーと話をしてくれる。
それでいいんじゃないんだろうか。
彼女を「何者か」に想像し、創造したプレイヤーの自己満足がそれぞれのエンディングなのだから。
プレイヤーには、彼女を詮索するいわれがない。
ただ、彼女は永遠に夜を過ごすことができても、どんな存在であっても、主人公と繋がっていたかったんだろう。
そして、小難しい雑談が今までの彼女を結ぶ唯一の共通点として残っていることで、今までのことは全部事実で、忘れられない思い出であって欲しかった。
このゲームは、そしてこのゲームにいる彼女には、そんな結論を付けるのが一番いいと思う。
少なくとも、私はそう思いたい。
【余談】
好きなシナリオの話をしていなかったが、個人的には「Rusty Caramel Cage」が、彼女のセリフも含めて一番好みだ。
犯罪者同士の歪んだ愛情がいいのはともかくとして、彼女が「レッテル」に対して言及するシーンが特によく、筆舌に尽くしがたい文章の美しさを味わうことができる。
特に好きな文章はこれ。
このルートの彼女の、特にこの文章は、恐ろしいほどまでに彼女が付けられた「ゆめかわでか弱い女の子」というレッテルへの敵対感情が感じられる。
彼女が感じている「こうあるべき」という周りの目を、そして「貴方がやったんだから私もやっていいよね?」という言葉を、誤謬の押し付けとして表現するワードセンスに脱帽する。
さらに「吐瀉物をまき散らした口」というワードセンスも悪い意味付けをするうえで完璧な語彙のセンスをしているし、いったい何食ったらこんな文章が出てくるんだろうか。
そして、何よりもこのルートの彼女の発言は、自分が彼女に感じていた「自分が彼女を何者に想像してもいい」ということへの、強烈なアンチテーゼになっている。
プレイヤーは各ルートで彼女との関係性を変えていったわけだが、逆に見ると自分たちが文章を打ち込んでいったことで「彼女にレッテルを貼った」と言ってもいい。
だから、彼女の言うレッテル貼りへの敵対意識は、プレイヤーが行ってきた行動そのものへのアンチテーゼといってもおかしくない。
「血液を全部抜いてさ、キャラメルラテを流し込もうよ」という彼女の言葉には、彼女の狂気が全開で溢れ出しているだけでなく、他人がそれぞれ付けたイメージ像などもはや意味がないことを、暗に示していたのかもしれない。
最後には文章ごとぶっ壊れてめちゃくちゃになるが、そこに埋め込まれた言葉の意味を、我々は最後まで理解できるのだろうか。