太宰治「人間失格」第一の手記 感想

なるほど、人間失格という題の物語の始めなだけはある、というのが第一印象だった。

私は葉蔵のような人間では幸にしてなかった。
たまにそのような、人間としてなにか欠陥しているのではないかという夢想に取り憑かれることは、まあ誰にでもあることかとは思うが、この人間は全く、根本から違うようだった。
他人は自分とは違うと思いつつもどこかで誰かしらを同一視している私とは、少なくとも根本から違う人間だろう。
ということは私は彼にとって、人間合格とでも言えるのだろうか、と思うと少し笑えてくる。

葉蔵のおそろしいところは、彼は人間というものの本質をある程度わかっているところだ。
だからこそ彼は人間を恐れているようだったし、だからこそ彼をみな疑いもなく接することができたことであろう。

父親にねだるものを思いつけず、機嫌を損ねてしまったことに恐怖し、挽回のために父親が望むことをやってのけた。
きっと彼は生きていくことが上手いのだろう。
人生自体は下手に見えるが。

人の腹から生まれ落ちたことが彼にとって最大の不幸だったか。
人でさえなければ、人でさえなければ…彼は、きっと生存競争に生き残るためだけに生きることができていたであろう。
人は生き残るためだけには生きられないと私は思っている。
社会の流れ、人の営み、友人、家族、恋人など、我々はさまざまな自分以外のために生きているように見える。
切り離せない余分を、彼が切り離して生きていくことができれば楽だっただろう。

いや、それはそうと、私は人間失格ではないにしろ合格ではないかもしれない。
不合格か、補欠合格か。
なにはともあれ、本当に私は人間失格ではないのだろうか。
失格の意味とは、定義とは、一体何であるか、私にはまだわかっていない。
続きを読もうと思う。