夏目漱石「こゝろ」下 感想1
読了後の空虚感はいままで味わったことのない感覚だった。
先生やKの自殺や思考によってもたらされた空虚感ではない
私自身のために引き起こされた空虚感だ
いや、この感覚を形容する言葉は空虚じゃないかもしれないが、語彙が足りていない私はそれと言っておく
お嬢さんについて
お嬢さんの潔白さしか目立たない話だったが、お嬢さんも知らぬ間に同様に罪を背負ってしまっている
お嬢さんはおそらく、Kがやってくる前から先生の事を好いていたろう
恋というものは盲目で、自分が好いているものが自分を好いているようにはどうも見えないものだ
それゆえに、先生はKに過剰な嫉妬心を抱いたのではないだろうか
順を追って話すと、先生とお嬢さんはKが来る前から当人たちは知らない間に通じていた
そこにKがやってきて、先生はKの世話をお嬢さんと奥さんに頼む
当然、自分の好いた男からの頼みであるから、初めは嫌々だとしてもその通りに動く
ここで私がひょっとして、と思ったのは、お嬢さん自身がKと仲良くするところやKとの接する様子を全て見せないことで、「先生に嫉妬心を抱かせる」という打算がないとは言い切れないのではということだ
当然、私の感覚で物差ししているため見当違いな事を言っている自覚はある。
しかも作者は男性だ。
当時の男性の人間という生き物は、今もかもしれないが、「若くうつくしい女性は潔白である」という幻想を抱いてると私は信じて疑わない。
Kと仲良くする様子を見せつけることで、あわよくば先生の嫉妬心を引っ張り出し、またもしかするとKと懇意になる事も満更ではなかったのかもしれない
流石にそこまで計算高く良識のないお嬢さんではないと思うが…
とにかく、お嬢さんの作戦は悪い方向に作用したのではないか、ということだ
一応弁明すると、私はお嬢さんという人物を否定的に見ていないし、嫌ってもいない
むしろ好感を持っている方だ
潔白である点には疑問を抱いているが、お嬢さんというひとは変わらずにただ一人の人間だという評価である
私はKで、先生で、お嬢さんで、「私」である
読者の同調意識がもたらされる
Kの死のシーンはあまりにも肉肉しい
迸る鮮血は命の鼓動そのものだった
頸動脈を切って一息で死ぬ…
生々しい表現と思った
生きた人間が死ぬ描写が克明に描かれている
私はその生々しさに恐れを抱き、読む目が止まるのを感じた
現実味のないフィクションのグロは大丈夫だが、医療ドラマなどの妙にリアリティを持つグロは苦手だ
例えば、東京喰種とかのグロは大丈夫と言った具合だが
Kの、若い人間がその生命力をもって血を流す表現を読み、少し鼓動が早くなったのはきっと気のせいじゃない
私自身(きっと多くの人がそうだろう)、自殺を考えたことがないわけではないためか、きっと苦しかろう、痛かろう、恐ろしいと感じて何かに怯える
思えば他人の自殺への虚無感・無力感はなんとなく昔からあった
それが私の体を動けなくするには十分な重さは持っていなかった
しかし半年ほど前、俳優の三浦春馬さんが自殺したとき、確かな重みを持った波が襲ってきたように思う
特段、三浦春馬さんの熱烈なファンではなかった(舞台もドラマも、追って見ることもなかった。三浦春馬さんとJUJUさんがMCを務めたNHKの某番組を録画していたくらいだ)が、年齢もそこそこに近く、私には珍しく顔と名前が一致する好きな部類に入る俳優さんの自殺が…
その空虚感は根強く私を掴んで離さない
きっと誰しもが死んでしまった縁を胸中に燻らせながら生きているだろう
それは距離であったり、亡くなってしまったり、不和を起こしてしまったり、自分から切り離してしまったり…
自殺する事でただの人間ではなくなる
自殺する前はそれぞれの考え方があるけど、結局は普通の人間と思う
しかし、自死を選び実行することは並大抵の人間ではできない
死んだつもりで生きていくことはできるけど、結局はあと一歩踏み出せない、踏み出さないのが生存本能ともいうものか
Kはその意思をもって若くして死を選び、先生もまたそれを選ぶこととなった
選ぶ、というよりもそれしか他に道がなくなってしまったのかもしれない
よく自殺しか道はないという人に、他にも何か道はあるはず!諦めないで、逃げて!という人がいるが、その精神や過去に道を示されているなら逃げ場なんてどこにもない
それこそ全てを忘れて、全くの別人として生きることができればそれがいいだろう
現実的に意図的に記憶を全て消すことは叶わない
言語能力やら常識やらも記憶に基づいて形成されているだろうし
私は私を生きなければならない
一旦区切って感想は2に続けます
飽きてなかったら書くつもり