信号待ちは少し後ろに
信号待ちをするとき、少し後ろに下がって待つ
どんなに急いでてもギリギリまで行かずに離れて待つ。
車が突っ込んでくるかもしれないという、これから自身に起こりうる事を考えたり、1番前を歩くよりも人の後ろを追っていきたい性格が現れていると思う。
14年間過ごした東北を離れて、去年の4月から関東で一人暮らしを始めた。
朝は人の流れに負けないように回転数を上げて歩くし、自分の存在が埋もれないように背筋を伸ばして堂々とする。そして信号待ちも、いつの間にかギリギリまで前に出るようになった。そうしないと、ここでは生きて行けない、そんなに後ろで待ってる人なんて1人もいない、強くいなきゃって無意識に思ってたのかもしれない。
このコロナ禍、誰とも会えない時間が何ヶ月もあった。人といない時間は、気楽に過ごせた。趣味がなくて、自分の興味の方向が自分自身になって、向き合う時間が増えた。私はどんな事を考えているんだろう、今までどんな生き方してきたんだろう、自分の身体ってどんな形をしているんだろう、触ったらどうだろう、など。イーってした時に、歯の事を気にせず生活してたことに気づいて久しぶりに歯医者に行ってみたり、姿勢をみて体幹トレーニングをしたり、パッと思いついた事をメモしてみたり、自分を知る機会にした。
中でも1番の気づきは、常に他人の評価や周りの目を気にして生きてきたこと。自分のことなんてとにかく後回し、他の人が自分のおかげで喜んで、笑ってくれればよかった。自分のプライドが他人の喜びだった。逆にいえば、他人に迷惑をかけたり自分のせいで辛い思いをしていることが分かると心がきゅーっと苦しくなることに気がついた。
今は適応障害で休職中。
新卒でテレワーク。心配症で何事も確認したい自分は、分からないことを聞くたびに、細かいこともこんな事聞いてしまっているのが情けなくなった。怒られもしなければ褒められることもほとんどない。自分がどこに向かってるかも分からず、毎日暗くて深い森に取り残されている気分だった。
どんな時でも、ムカつく相手へは無関心と決めている。興味を持たない、存在しないことにするのが人間にとって1番の苦痛だと思っているから。その状況に自分が置かれているような気がして苦しかった。それでも、誰にも迷惑をかけてはいけないと、相談もできなかった。
体調を崩して気づいた、長い長い夜を越えて、絶対的な味方は自分だけなんだと。この苦しみも、痛みも、辛さも、世界中の言葉をかき集めたって、顔面の筋肉を極限まで柔らかくして表情で示したって、100%ピッタリ伝わることなんてありえない。だから、自分自身を触って、見て、感じて、日々の変化をじろじろ観察しながら自分を知る。これが自分なんだと受け入れる。決して環境に流されて背伸びはせず、自分に素直に生きていかなくてはと。
信号待ちで、ギリギリで待つのをやめた。後ろにいる自分を少し愛おしく思えた。私らしい。早歩きだってしなくていいじゃない。他人に合わせようとしなくたっていいじゃない。無理せず、自分の気持ちには嘘をつかず、真っ直ぐに生きていきたい。