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斎藤佳三のリズム模様

紳士についてまとめている途中ですが、久々に和服関連のことを書こうと思います。きっかけは古本屋で見つけた「斎藤佳三の奇跡-大正・昭和の総合芸術の試み-」の図録。2006年、東京芸大美術館で開催されたコレクション展です。

戦前のモダンな展覧会で、斎藤佳三の作品を目にする機会が多々あります。中でも和服関連の作品は見応えがあり、風変わりで面白い模様、和服生地を利用した洋服、和服を洋装化した新しい提案など、当時のモダンの一面を知るには最適な作品ばかりです。

斎藤は幅広い分野で才能を発揮した異色な人物といえます。その活動は美術、音楽、工芸、デザイン、舞踏、演劇、文学と実に多種多様です。しかし、多岐に渡る活動の中で一貫していたのは「生活全体と芸術の統合」。まずは、この思考に至った動機、携わった仕事について経歴を追いながら端的にまとめていきます。


斎藤佳三の経歴

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「ベルリン時代(斎藤佳三、山田耕筰、郡虎彦)」『芸大コレクション展 斎藤佳三の奇跡 ー大正・昭和の総合芸術の試みー 』P7より

1887年4月28日
父・斎藤忠一郎と母・ナオの次男(3男4女の第6子)として秋田県矢島町に誕生。父・忠一郎は郵便局長や県会議員等を歴任。

1905年
東京音楽学校師範科入学。音楽学校在学中、生涯に渡り親交を深める山田耕筰との出会いを始め、小山内薫、北原白秋、吉井勇、西條八十、岡田三郎助らとも交流を持ちます。彼らから異なる分野(文学、思想、舞台芸術など)の刺激を受け、岡田三郎助の妻の勧めを契機に東京美術学校への進学を決意。

1907年
東京美術学校図案科入学。美術学校の授業は不満な点が多く虚無感を感じており、授業よりも、広川松五郎、今和次郎、高村豊周らとの交流の方が斎藤の探究心を刺激する起爆剤になっていたようです。

1912年
卒業制作を早々に提出しドイツへ留学。1年ほど山田耕筰と同宿しています。留学中は舞台や展覧会に足繁く通い、建築、文学、演劇、美術などの「総合芸術」を直接肌で感じ、感情を作品に投影する「ドイツ表現主義」に啓発を受けます。

1914年
帰国後、山田耕筰と共に日比谷美術館で独逸シュトゥルム分社主催「DER STURM木版画展覧会」を開催。日本の美術家たちに大きな衝撃を与え、好評を博しました。
斎藤佳三、佐藤久二、今川郁太郎で「日本意匠協会」(後の斎藤佳三美術研究所)を設立。
自由劇場第8回、及び1919年の第9回公園の意匠を担当。

1916年
第1回新劇場公演の背景・衣装を梶田恵、中村翡翠と共に任され、他にパンフレットデザインも担当。
第2回新劇場の背景・衣装、パンフレットデザインを担当。
新劇場は、1916年に小山内薫が山田耕筰と石井漠の舞踏詩の発表を目的として立ち上げた舞台です。採算が取れず3回をもって終了していますが、その後も山田耕筰と石井漠の公演時には美術・衣装デザインを手掛けています。

1917年
セノオ楽譜第二冊「古戦場の秋」表紙デザインを担当。竹久夢二と共に表紙デザインの常連となります。
白木屋でリズム模様製品(半襟・傘・浴衣)の個展を開催。

1918年
帝国劇場公演「ハムレット」の衣装を担当。『平面図案法』で上演衣装について

「衣装は独立し得るものではなく、装置、配光、演技と総合的に考案すべきである。また上演衣装の本質について、風俗史・博物館的な雛形ではなく、生きた俳優の透明な「面」であり第二の皮膚でなければならない」

と述べています。
白木屋でリズム模様の夏用半襟の展覧会を開催。

1919年
舞台で「女王メロ」の脚本、作曲、衣装・舞台背景を、ユーゼェヌ・ブリュウ作・小山内薫訳「信仰」の衣装を担当。
装丁で山田耕筰「Japanese Siltouettes」(G.Schirmer Publ.Co.,N.Y.)のデザインを担当。
母校である東京美術学校の非常勤講師に着任し、15年間に及び服飾学と意匠図案学を指導。
資生堂ギャラリーにて「斎藤氏サラサ展」を開催。さらに岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉、広川松五郎、高村豊周、西村敏彦、原三郎、今和次郎、渡辺素舟らと「装飾美術家協会」を結成。同年、この会の展覧会を開催。

1920年
松竹キネマ俳優学校にて美術史と音楽を担当。その後、松竹キネマ合名会社創業と同時に松竹蒲田撮影所の美術部長に就任。
白木屋呉服店で新時代の婦人服十種を発表。続いて、装飾美術協会の第二回作品発表会でリズム模様のデザイン数十点を出品。
日本楽劇協会公演ワーグナー「タンノイザー」、ドビュッシー「帰れる児」の衣装と舞台装置のデザインを担当。
生活改善同盟会の服装改善調査委員に任命され、公的にも服飾関係に関わっていきます。生活改善同盟は下記を目的とした組織でした。

日本の伝統的生活様式と西洋の生活様式が同時に存在する「二重生活」から脱し、合理的生活を建設するため、西洋式の生活様式へ移行を唱えており、服装も男子、女子とも不合理とされる和服を廃し、洋服に改めることが推進された。

それにもかかわらず、斎藤は委員でありながら異なった提案を行います。それが「天平式」と名付けられた和服の着用法です。この「天平式」は後ほど取り上げます。

1921年 目立った活動がないので省略。

1922年
帝國ホテル「お茶の給仕に出る女の服装」をデザイン。
帝劇で開催した「石井漠渡欧記念舞踏講演会」の舞台装置と衣装デザインを、音楽指揮は山田耕筰が担当。
年末から翌年11月まで、2度目のドイツ渡航。渡航目的は、農務省嘱託として特許庁より意匠法の調査、東京美術学校から装飾美術教育の調査を託されてのことでした。図録によるとその目的の詳細が次のように記されています。

日本で意匠法が制定されたのは明治32年(1899)であるが、かろうじて工芸が意匠法の対象となっていたのみで、装飾、図案に関しては自立性が認識されておらず、例えば工芸品に附属しない原案としての図案は保護対象から外れていた。斎藤は装飾、図案の創造的位置を保護するために国内外に向けた法の整備を提言したようですが、工芸品ですら著作物の定義には含まれていなかった当時、時期尚早として見送られており、斎藤の先見性は理解されなかった。

以前の記事で戦前の著作権について少し触れました。斎藤の提案が通っていたら、デザイン従事者に対し横行していた盗作への抑止力になっていたかもしれません。
当時のドイツで先端美術を学ぶならバウハウスが挙げられますが、斎藤はバウハウスの方向性に必ずしも影響を受けたわけではなかったようです。一度目の留学で訪れた、エミール・ジャック=ダルクローズが創設したヘレラウの教育施設を再訪しています。ダルクローズの「リズムを通じて心身の総合的な調和を図る」音楽教育理念の方が、斎藤の理想とする芸術に近ったようです。また、バクストの衣装画やバレエ・リュスにも触れ、律動する身体に対する衣装のあり方について理解を深めていきます。

1923年
帰国までドイツの工芸学校を視察しながら劇場へも頻繁に足を運び続けていました。さらにベルリン滞在中に「斎藤生活美術学校」の構想を日記に認めています。
帰国後は、妻久邇子が経営する化粧品会社「リリス」の包装紙、パッケージ、レッテル等のデザインを手掛けています。

1924年
「意匠協会」を組織変更し、婦人図案工芸家の養成を目的とした「装飾美術研究所」を本郷の自宅に設立。国民美術協会会員となり、同会主催「独逸現代美術展」準備委員に着任。

1925年
「装飾美術研究所」を学校組織に変更し「斎藤装飾美術研究所」を開所。入所資格は、高女卒業の30歳未満の者、卒業年限2ヶ年。開所時は10名の募集から始めています。
仕事面では展覧会、広告類、教科書の装丁などのデザインを手掛け、帝國ホテルの給仕服のデザインも続けています。

1926年
東京日日新聞主催「皇孫誕生記念子供展覧会」の館内装飾を担当、ならびに陳列意匠審査員と出品査定委員も兼任。この展覧会入選者の賞状のデザインも手掛けています。その他装飾の仕事で、長崎県博覧会会場の装飾設計、長野県商工会議所の店頭装飾とポスター展の批評・公演を開催。

1927年
「国際工芸株式会社」を立ち上げ「企業の決意」を発表。

大正時代は自分にとって研究の時代であり、日本の工芸問題、服装問題、右に関する意匠図案問題に取り組んできたが、世が変わった今、「模擬を戒め創造に勗めよ」

新天皇の言葉を汲んだ表明内容であり、その中には国民生活の改善、輸出工芸振興を目的も含まれています。そして、数年後には「流行考査書」を設立。会社には付属教育機関を設け、意匠図案家育成の体制作りも行っています。
他に「リズム模様」半襟を紹介する記事の作成。化粧品リリスの新商品「さゆり」の記念公演を開催。資生堂ギャラリーにて「新時代リズム模様半襟」「伝統セード」を出品し、新リズム模様を紹介。
ついに第8回帝展から第4部美術工芸が新設され、悲願であった帝展への出品を果たします。斎藤氏が出品した「想ひを助くる室」という作品は、空間を構成した「部屋」です。帝展出品規定ぎりぎりの四畳半に、家具、調度品、窓枠などを用い、斎藤氏のいう「組織工芸」と呼ばれるものでした。「想ひを助くる」というテーマは、「歌人が歌を詠むため瞑想に耽る部屋」という心情を表現した作品でした。しかし、この作品は落選に終わります。理由は、材料の一部に用いるはずの材料が未使用であったとのことですが、これでは腑に落ちない審査結果といえます。考えられるのは、一品の工芸品ではなく「部屋」である作品をどう審査するか、初めての経験により判断が難航したのではないでしょうか。落選結果に対し、斎藤は日日新聞で「組織工芸としてワンセット即ち一点の美術工芸品として吟味して頂きたい」との公開状を掲載しています。

1928年
大礼記念国産振興東京博覧会で数企業の会場装飾を担当。主情派美術展に出品。この展示には山名文夫や沢令花も参加しています。
第9回帝展に「食後のお茶の部屋」を出品し、見事に入選を果たします。この作品について斎藤は「日本趣味の表現主義」と説明していますが、藤井達吉に「友人の言葉を借りれば、気狂いになる部屋」と非難され、またも新聞にて自身の「日本趣味」につい丁寧な解説を3日に渡り掲載。図録には斎藤が帝展への出品にこだわった理由が明確にまとめられています。

帝展における斎藤の作品は、その最初から組織工芸という、いくつかの構成物により成立つ室内装飾、つまり、今で言うインテリア・デザインであり、商工展ではなく帝展で入選させることにより、それらも作家の創意の下に製作される芸術作品であることを認めさせ、職人としての扱いしか受けないデザイナーの能力の高さ、独立性を世間に認知させる目的をもつものであた。そして、何より帝展への出品は、斎藤にとって、生活の場の美的統一という自身の理由を実際に実物により提示し、世間へ問う意義ある行為であったのである。

斎藤の抱えていた問題は、過去の西洋においても同じことでした。日本でも現状の認識を変えるため、「工芸」「工芸美術」「装飾美術」の定義付けを行っています。
出品は昭和7年まで続き、出品作は婦人雑誌でも紹介され中間層以上の女性たちには「生活芸術」が認知されていたことでしょう。

1929年
資生堂ギャラリーにて「春向きリズム模様半襟」を発表。主情派第2回美術展を丸ビルにて開催。第10回帝展で「寛ぎの食堂」が入選。石神井の自邸に「想ひを助くる部屋」、葉山の別邸に「食後のお茶の部屋」を移す。
この年から「ビクターハーモニカ楽譜」の表紙デザインを担当。今でも運が良ければ古本屋で見つけることができます。構成がしっかりしたデザインが特徴で、斎藤の構成力の高さがうかがえます。
同年、中国国立芸術院創設に際し図案科主任教授として、1年間当地に赴任。

1930年代以降も斎藤の活動は続きますが、この記事ではここまでにします。それでも、斎藤が生活芸術の啓蒙や仕事・作品作りに邁進していたことが分かりました。


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