クラブ化粧品-少女のお化粧-
大正6年、7年の『少女画報』に中山太陽堂によるクラブ化粧法が紹介された記事を見つけたので、取り上げておきます。
♣少女とは
少女という呼び方が一般化したのは、明治30年代といわれています。明治20年代前半頃までは少年・少女の区別がなく、年少者はまとめて少年もしくは幼子の呼称として、男子・女子が一般的だったようです。
明治30年代以降、少女といえば女学生がその代表的な存在として認識され始めます。理由として考えられるのは、明治30年代以降に女学生の増え始め、同時期に少女雑誌の創刊が盛んになり、女学生向けの記事が多く取り上げられたことが一因ではないかと考えられます。また、雑誌の表紙に女学生が描かれることが多く、視覚的にも少女=女学生というイメージが定着していったったのかもしれません。
♣『少女画報』大正6年8月号
過去に何度か化粧の手順について触れていますが、少女向けとは言え、化粧の仕方は大人の女性とそう変わりません。
上部画像を端的にまとめると以下の通りです。
クラブ洗粉で洗顔
クラブ美身ゼリーを襟と顔に塗る。荒れ性の人はクラブ美身クリームを代わりに擦り込んでタオルで拭き取る。
クラブ白粉をつける。薄化粧の場合はクラブ水白粉を使用する。
牡丹刷毛で白粉を伸ばす→水刷毛で白粉を均す→濡れタオルで抑えて白粉を落着かせる。
クラブ頬紅を目の下から頬にかけ薄く付ける。
クラブ粉白粉で襟と顔を刷きならすと高尚なお化粧の出来上がり。
ここでは紅をさす手順が省かれています。しかし、紅をしないのは片化粧で縁起が悪いため、少女であっても紅は付けたはずです。ただ手順に記載していないのは、クラブ口紅の発売が大正12年であり、自社製品がないことから省いたのでしょうか。過去の記事、『お化粧』でも口紅の手順は記載されていませんが、『近代美粧』には口紅の記載があります。
♣『少女画報』大正7年3月号
大正6年の記事ではクラブ化粧法の手順のみが紹介されていました。こちらの記事では、化粧法に入る前に悩める乙女の物語が綴られています。
♧お伽訓話「菖蒲の精」
少し長いので、手短にまとめることにしましょう。乙女の悩みは、大まかに要約すると以下の内容です。
クラブ化粧法で正しくお化粧をすれば、誰でも美しくなれるというお話ですね。同様の悩みを抱えていたであろう少女には、他人事と思えないお伽訓話だったのではないでしょうか。
ですが、少女達の期待とは裏腹に、色白に変化することはなかったと思います。他の化粧品ブランドでも「使うほど色白になる」と謳っている商品が多いですが、それは夢物語だったでしょうね。
♧クラブ化粧法の手順
『菖蒲の精』に続いてクラブ化粧法が紹介されています。こちらも手順は大正6年から変わっていません。ただ、手順に沿って商品イラストが追加されており、どのクラブ化粧品を使用すれば良いのか、視覚的に分かりやすいインターフェースになっています。お化粧を初めて試みる少女とって、親切な設計ですね。
クラブ洗粉で洗顔。
クラブ美身クリームを襟と顔に擦り込み、蒸しタオルで軽く拭き取る。
クラブ白粉をよく煉り襟と顔につける。
牡丹刷毛で白粉を伸ばし、水刷毛で白粉をならし、濡れタオルで抑えて白粉を落着かせる。
頬紅を目の下から頬にかけ薄くつける。
クラブ粉白粉を襟と顔に軽く打つと高尚で美しい淑女式のお化粧が完成。
女学生読者が多いであろう『少女画報』に、クラブ化粧法が毎号掲載されていたのは、女学生でも嗜みとして化粧をすべきだとの考えがあったからです。もちろん全ての女学校がそうであったとは言えませんが。
また、化粧品会社は女学校の卒業祝いとして、生徒達に化粧品サンプルやポストカードを配布することもあり、自社製品の宣伝に余念がありませんでした。これから先、大切なお得意様になる可能性もあったでしょうからね。
♣お嬢様へ
少し昔になりますが、豊島区立郷土資料館・ミュージアム解説準備だより『かたりべ121』で中山太陽堂のクラブ美身に触れている記事があります。「衛生と美容の日用品①-クリームの発売と普及」の項目で、まだ学校へ通っているお嬢さんでもクリームで手入れをする必要性を説いています。
この記事が掲載されている『かたりべ121』はこちらからPDFをダウンロードが可能です。クラブ化粧品のカタログ写真も掲載されているので、目を通してみるのも面白いと思います。