怪あやかし 貴女と交わした約束
「あの社には、決して近づいてはならない。その血を口にした者は、災いが再び甦るぞ。」
まだ幼い私に、年老いた村人達は、口を揃えてこう言っていた。
皆、先祖から代々言い伝えられてきた迷信、または逸話だと誰もが信じていた。
あの日、地獄が訪れるまではーー。
**
百年前、闇の深まった満月の夜、ある村の集落に"そいつ"は静かにやって来た。
異様な気配に気付いた男の村人達が、一軒の住屋に駆けつける。
すると、むせ返すような血の臭いと、獣のような呻き声が住屋の中から聴こえてきた。
村人達が刀を手に中へ入ると、辺りは物で荒らされており、襲われた村人が必死に抵抗したような痕が残されていた。
ふと炬で床を灯すと、入り口から中へと引きずられたような、多量の血痕が暗闇へと続いていた。
村人達は刀を構え、その血の後を辿った。
その血の先に居たのは、長い髪を振り乱した着物姿の女だった。その女は、部屋の隅にしゃがみ込み、背を向けていた。
何かを咀嚼しているように、体を小刻みに揺らしている。
「お前、何をしている」
刀を向けた村人の一人が、その女を問いただした。
すると、その女は体の動きを止め、ゆっくりと振り返った。
暗闇の中に姿を現した"そいつ"は明らかに人ではなかった。
そして、虚ろいだ眼は赤く光り、血で真っ赤に染まった口から見せる鋭い牙を剥き出しにしながら、襲った村人の足の肉を喰らっていたのだ。
周りには、食い散らかしたのような骨だけの片腕が転がっていた。
その姿に村人たちが後退ると、"そいつ"は笑いながら、呟いた。
「血の臭いがする。」
そう呟いた瞬間、勢い良く村人たちに向かって襲いかかった。
一人の村人が肩を噛まれたが、その女は直ぐに村人に刀で首を斬られ、息絶えた。
しかし、暫くすると肩を噛まれた村人は激しい発作を起こした為、村人達はその村人も危険であるとされ、殺められた。
討ち取った証として、その女の首から滴り落ちた血を、強固な結界が張られた古い神社に祀ったのだ、と伝えられていた。
しかし誰ひとり、その迷信を信じようとはせず、その祀られた血を探しに出た者もいたが、誰ひとりとして見つけられなかった。
そして百年の時は過ぎ、誰もが、その話を忘れかけていた頃だった。
**
平穏なある日の夕方、村の集落に暮らしていた一人の少年が血塗れの姿で、村に現れたのだ。
その日の昼下がりに、数人の子供たちを連れて、村の林へ遊びに出掛けると走って行く少年の姿を、私は目にしていた。
しかし、村へと戻って来たその少年の目は虚ろぎ、支離滅裂な言葉を呟いている。
その少年は、ふらつきながら蛇行するように数歩前に進むと、その場に倒れ込んだ。
その姿を見た女性が悲鳴をあげ、村人達が「何事だ」と騒然とした様子で集って来た。
私は、少年の傍に駆け寄り、血塗れになった上の衣を脱すと、右の肩に牙で噛まれた様な小さな噛み傷があった。
「この傷はどうした?何があった?」
私は、切迫した表情で少年に尋ねた。
すると、少年は息絶え絶えに言葉を発した。
「噛まれたんだ…血を飲んだ仲間が…いきなり、襲ってきて…僕は飲まなかった……僕を追いかけて…あいつらが……ここへ来る……」
そう呟き、意識を失った。
その瞬間、彼は激しい発作を起こしたように身体を上下に揺らし、暫くすると動きは止まった。
その姿に騒然とする村人達の中から、老いた村の長が表情をこわばらせ、杖をついてこちらへと歩いて来た。
その少年の前まで歩いて来ると、蒼白した顔で村人達に言い放った。
「……みな逃げるんだ。あの化け物が、あやかしが襲いに来る。」
村長のただならぬ様子に、村人達は一瞬静まり返る。
「あやかし……、もしかして、その子の仲間の誰かが、あの社に祀られた血を飲んだのか」
一人の村人が神妙な顔つきで呟くと、村人達が一斉にざわめき出す。
「まさか」「社に祀られた血って」「人食いの化け物の」「言い伝えられている迷信じゃないのか?」「あれは、作り話だろ」
村人達の様々な声が飛び交う横で、私と一緒の住屋に暮らしている茜が、血の気を引いたような青ざめた顔をしている。
「……茜?」
不安げに名前を呼ぶと、暫く沈黙して口を開いた。
「……妹も、あそこへ出掛けたわ…」
私は、彼女の言葉に言葉に詰まらせた。
「……ねぇ…どうしたらいいの……?」
俯きながら、涙声でそう呟くと、その場に膝から崩れ落ちた。
彼女の哀しげな瞳から流れる一筋の涙が、着物の袖に零れ落ちる。
小さく肩を震わせる茜を、自分の胸へと優しく抱き寄せた。
「あの子には私しか家族がいないの。親が火事で亡くなってから、あなたと妹と暮らしてきたけれど、あの子には私しか…。」
そう言って、泣き崩れる茜を、私は「大丈夫よ…」と何度も呟き、強く抱き締めることしか出来なかった。
すると彼女は、何かを思い立ったかのように、おもむろに立ち上がり、私たちの暮らす住屋へと歩き出した。
「茜!?」
私は、茜の後を追いかけ、住屋へと向かった。
彼女は、床下に隠してある二本の護身用の刀を取り出し、一本を腰に結びつけた。
「まさか……」
「私、様子を見てくるわ、もしかしたら、あの子に何かあったのかもしれないし…」
そう言って、言葉を失い立ち尽くす私を、彼女は強い眼差しで見つめた。
「駄目だよ!危険すぎる!」
立ち去ろうとする彼女の腕を、強く掴み引き止めると、彼女はそっと私の手を離した。
彼女は、もう一本の刀を私に手渡し、首から下げている小さな御守り袋から朱色の二本の紐を取り出す。
「お願いがあるの。…何があろうと必ず生き残るって、約束してくれる?」
そう言うと、優しげな表情で微笑みながら、私の右手の手首に朱色の紐を固く結ぶ。
私の頬を生温かい涙が伝い、零れ落ちる。
私がその言葉に小さく頷くと、彼女の細い手首に同じ紐を固く結んだ。
「必ず戻って来るわ…」
そう言って、哀しげな瞳を潤ませながら、涙を伝う私の頬に優しく触れた。
小さく震える彼女の手を包むように、私はそっと手を重ね合わせる。
互いの温かさを決して忘れないよう、暫く抱き合うと、振り返らず彼女は去って行った。
沈み行く夕陽が、まるでこの世の終わりを伝えるように、空を、赤く不気味に染めていた。
**
「おい…、あれは……?」
一人の村人が、遠くを見て指差す。
村人たちはその言葉に静まり返り、一人の村人が指差す方向を見た。
そこには一人の少年が、私達がいる場所より少し離れた所に立ち止まり、声を上げて泣きじゃくっていた。
「あの子……!帰ってきたんだわ、あの子!良かった!無事だったのね!」」
その子供の母親と思える女性が慌てて、その子の元へと駆け寄って行く。
私はその子を見て、何かが引っかかった。
よく見ると、先ほどの子供とは違い、袴に全く血が付着していないのだ。
「良かった、帰って来たのか」「何かの遊びの真似事だったのよ」「村長は、もう年老いているしな」
そう口々に言いながら、村人達はそれぞれ安堵の表情を見せた。
その瞬間、ある言葉が鮮明に私の脳裏を過った。
遠い昔、亡き祖父が幼い私に何度も話していた、あやかしにまつわる言い伝えだった。
「いいか?その社に祀られた血を飲んだ者は、時が経つと人間の理性をやがて失い、そして血の臭いや人間の肉の臭いがすると、噛みつき人を喰らうのだよ。噛みつかれた者は、奴等の唾が体内に流れて、その者もまた変貌してしまう。奴等は、同じ血の臭いがする者は襲わないが、においで嗅ぎわけて人間を襲うのだ。」
「待て!近寄るな!」
私は大声で叫びながら、親子の元へと走ったが、既に遅かった。
その少年は、抱き締めている母親の首に、鋭い牙で噛みついていたのだ。
すると、女性は崩れるように前に倒れた。その姿を見た村人達は騒然とし、その場は一瞬で地獄と化した。
その少年は次々と村人を襲い、逃げ惑う村人達の血や肉を喰らった。
噛まれた人々は、暫くすると痙攣し意識を失い、再び あやかしとなって覚醒し、人間を喰らっていた。
私は刀を手に、親しく過ごした村人たちを何人も殺め、斬りつけた。
まるで、肉を喰らう野犬のように獰猛に襲いかかってきた村人たちは、人格や今までの記憶さえも消え去っているようだった。
血の海と化した村で、私はただ一人血で染まった刀を手に、変わり果てた村にただ立ち尽くしていた。
**
あの惨劇から、どれほどの時が流れたのだろう。
結局、茜は幾ら帰りを待っても、村へは戻って来なかった。
刀を血で染めながら、あやかしが蔓延る変わり果てたこの世を、私は約束を交わした、たった一人の大切な人を探すために果てなく歩き続けていた。
互いの手首に結び合った朱色の紐を、冷たい夜風が揺らす。
そよぐ風が、奴等の血で染まった袴の袖先をはためかせる。
草木の生い茂る薄暗い荒野を、暗闇に浮かぶ満月の光が、ぼんやりと照らしていた。
ある一人の行方を追い求め訪れたその地で、私は一人佇んでいた。
妖しい眼光を揺らめかせながら、近寄る"奴等"の気配を背筋に感じる。
一瞬、荒野を駆け抜けるように夜風が己の体を吹き抜け、微かな獣のにおいが私の鼻をかすめた。
暗闇に漂う風の向きが変わる。辺り一面の草木の揺れが止まり、静寂に包まれる。私は、瞼を閉じ、神経を研ぎ澄ませる。
ーー来る。
ざわめく草木を切るように走り抜ける奴の足音が、背後を駆け巡る。
その瞬間、私は眼孔を見開き、腰に掛けた刀に右手をかけ、振り返ると同時に勢い良く引き抜いた。
互いの刀が、二つの稲光が衝突したように激しく光り、弾けるような音を鳴らして、ぶつかり合う。
赤い眼光が暗闇を漂い、鋭い牙を見せながら襲いかかってくる奴の刀を必死に抑え、互いの刀が軋めき合う。
私は足を後ろへと引き、刀に力を込め相手の刀を弾き飛ばした。
相手が後ろへとよろけた瞬間、私は奴の首を目掛け、刀に力を込めて、斜めに振りかざす。
奴の首からは血が流れ、満月が照らす荒野へと倒れ込んだ姿を見て、私は目の前が歪んだ。
怪へと姿を変えてしまった、茜の姿がそこにあったのだ。
溢れた血が地面に広がり、彼女の手首に結ばれた朱色の紐が、深い赤へと染まっていく。
手から刀が抜け落ち、息絶えた彼女の隣に崩れるように座り込んだ。
狂乱に充ちた私の哀れな叫びが、荒野に響き渡った。
私の頬を、一筋の涙が伝い零れ落ちるのを肌に感じながら、震える右手で刀を自分の首に当て、瞼を綴じた。
「……生きて……」
その瞬間、小さく呟いた彼女の声が、風に乗って聞こえたような気がした。
**
気がつくと、朝の日の光が辺りを明るく照らしていた。
彼女の冷えきった体に寄り添いながら、私は隣に横たわって、ただ遠くを見つめていた。
安らかに眠っているような彼女の顔を、目に焼き付けるように見つめる。
硬直した彼女の手首に結ばれた朱色の紐をほどき、自分の右手に強く結んだ。
そして、後ろを再び振り返ることなく、果てなき道を歩むのだった。
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