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最終電車は煙草の香り 貴女と私の秘め事
終電だけは逃さないようにと、在宅ワークの間に溜まった仕事を何とか終わらせ、早足で会社を出た。
今日は上司に酷く怒られてしまった。自分が悪いのは渋々にも理解しているが、自分の情けなさに長い溜め息が出る。
「はぁ……」
11月の冷たい夜風が、マスクに隠した曇った表情を凍えさせる。時折漏れる白い溜め息が、冬の夜空に浮かんで霞んで消えて行った。
指先まで冷えきった両手をコートのポケットに入れて、鼻を小さくすする。
今日はやけに、夜の街のざわめきが耳に響く。
ふと大通りの辺りを見渡すと、タクシーなどの車の騒音と、煌めく夜のネオン街が早足で行き交う人々を照らしていた。
変わらず街は賑やかなように見えたが、建ち並ぶ飲食店には人の姿は少ないようで、以前は当たり前のように聞こえていた人々の笑い声も聞こえなくなっていた。
毎日同じようなニュース番組の映像が、ビル街にやけに目立つモニターに映し出されている。
点滅しそうな青信号の交差点を目の前に、駆け足で渡ろうと走り出した時、スーツ姿の男性の肩にぶつかった。
「すみません」
咄嗟に頭を下げたが、男性はまるで何事も無かったかのように無言で通り過ぎて行った。
一瞬感じた男性の冷ややかな眼差しを身体に残しながら、気付くと私は交差点の前に一人立ち止まっていた。
自分だけ別の世界に一人取り残されたように感じる。
同じように光のない眼差しを向け、行き交う人々の忙しない足音が、まるでこれからの不安をかき消したいかのように、悲しげに聞こえた。
**
駅のホームにて一人電車を待っていたが、あまりの寒さにあまり普段利用しない待ち合い室へ向かうことにした。
ホーム内にある小さな待ち合い室に向かうと、ホームにはまだ人がいるにも関わらず、一人の女性だけが端の席に座っている。
そっと扉を開け、静かに入り口近くに座った。
「ッ」
座った途端にむせ返すような嫌な香りが鼻をつく。辺りを見渡すと、端の席に座っている女性が、煙草を吸って煙をふかしていた。
駅構内は、確か禁煙だったはずだ。
人の不貞行為に一々口を出すのは、面倒なうえ良いこと何てなに一つ無い。それどころか、損害を被ることも少なくはないと、私は思っている。
しかし、こちらが正しいにも関わらず不快な気分にさせられていることに、次第に腹立たしくなっていた。
再度、女性にもう一度目線を合わせると女性もこちらをじっと見ている。
一瞬、心臓が飛び跳ねたが、勢いなのか今日の不運な出来事の八つ当たりなのか、何か分からない衝動に駆られ自分の足が勝手に動いていた。
「何?」
はっと気づくと、女性の目の前に立っている自分がいた。女性の鋭い視線が、突き刺さる。
一瞬現れた正義感に溢れた自分を、後の祭りだと後悔した。
「あの…ここ禁煙ですよ。」
俯きながら、恐る恐る裏返しそうな弱々しい声でそう言った。
「……」
唇を噛み締めていたが、何も言葉が返ってこない。
ふと目線を上げて女性を見ると、瞳から大きな涙を流して私を見つめていた。
煙草の香りに少し脳内を眩ませながら、私は彼女の美しい瞳から流れる涙から目を離せなかった。人とこんなにも長く見つめ合ったのは、どれほど久々なのだろう。
女性は少し目線を落として煙草を見つめる。
瞳から溢れた一筋の涙が、彼女の華奢な身体を纏う黒いコートに染み込んでいった。
肩に流れる繊細な黒髪を少し耳にかけると、悲しげに私に優しく微笑んだ。
「良かった、最後に私を叱ってくれる、貴女がいてくれて。」
そう微笑みながら言うと、ふいに立ち上がり私の耳元で「ありがとう」と潤んだ声で小さく呟いた。私の背後から、待合室を出ていく扉の音が聞こえる。
いつの間にか流れていた涙で、自分のマスクが濡れて冷たくなっていたのにふと気がつく。
「……行かないで。」
私は、咄嗟に後ろを振り返って彼女を追いかけようとしたが、そこに彼女の姿はもう無かった。
**
次の週、私は同じ駅のホームで電車を待っていた。
待ち合い室を背に、彼女が最期に立っていたであろう場所に立ってみる。
最近この駅で、終電の時間に女性の人身事故が遭ったのだと、いつもは読まないネットニュースでふと知った。
ニュースの記事の日付を見ると、あの夜の出来事より二週間近く前のことだった。
コートのポケットから見つかった小さな紙には、最期に一度だけ煙草を吸った悪い自分で終わりたかった。という遺書らしきものが見つかったらしい。
あの待合室では、煙草の吸い殻が見つかっていて、彼女の望んだ終わりに一人暗い部屋で少し笑って、あの澄んだ綺麗な瞳を思い出していた。
マスクから漏れる白い吐息が、冬の夜風に霞んで消えて行く。駅のホームの時計を見ると、もう明日を迎えようとしていた。
最終電車を待ちながら、私は彼女を想っていた。
矛盾だらけの自分にずっと迷いながら、自身の最期を何度も繰り返して、煙草を吸う前に誰かに気づいて欲しかったのだろうか。
そんな寒空の下の駅のホームで、いつまでも知れるはずもない、彼女だけの秘密に想いを馳せる。
果たして彼女の救いになれたのか、それは彼女にしか分からないが、あの時、勇気を出した馬鹿な自分を好きに思えたのは確かだ。
少しだけ、また人を好きになれた気がした。この世に居ないであろう彼女を、私は忘れはしないだろう。
何となく、駅の売店で買ってみた煙草をコートのポケットから一つ取り出した。
煙草の香りが冷たい夜風に柔らかく舞う。
どこからか仄かに、あの彼女の煙草の香りがしたような気がして後ろを振り返った。
完