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図書館の2時間制限
外出に理由が必要になって数ヶ月、少しずつ理由づけがうまくなり「空気の読めるひと」に擬態して日常の中で自分らしい幸せを取り戻しつつある。
学校が再開され、社会科見学も行われたという話を先日耳にした。GOTOキャンペーンで、経済を促進するための消費をゆるく後押しするような言葉も飛び交うようになった。
それでも、「出かけます」と公の場で口外することはまだまだ憚られる中にある。
近所の図書館では、1人2時間の制約つきで施設を利用できるようになった。
電車で1駅、「不要不急の外出」か否か。
必ず今日本を読まなければならないのか。
家で本を読むのではダメなのか。
「仕事」「約束」「病気」「冠婚葬祭」
不要不急の概念には、決まり事や自分以外の人間の都合に含まれているかいないかで客観的な審判が下される。
電車で1駅、仕事での出勤と同じIC料金で同じ距離。
他人とは約束していない、ただ私が私自身と、週休2日のうちどちらかの日の2時間は図書館に足を運び活字を貪り、最高の贅沢をしようと「決めて=約束して」いる。
決してすぐに今日やら「ねばならない」のかと言われればそうではない。
だが、この2時間を4週分=一ヶ月に8時間 本が1冊1500円×5冊×8=40冊、これだけの損失があるかと思うとこの2時間は譲れない。
子供たちの勉強がストップした時、家族も子供たち本人も先生も、いたるところから子供たちの将来を案じる声が上がっていた。
「子供達の学びはどうなるのか」「受験はどうするのか」。
しかし、混沌とした先の見えない時代に投げ込まれた子供たちが遅れてしまった学びを取り戻そうと必死に勉強に取り組む中、先導者となるべき大人の学びはどちらかといえば「不要不急」に近しい扱いになっている。
何を以て不要不急とするのか、そこには個人の選択が付いて回る。
どの場面においても判断を迫られるご時世において、「戦わない」という姿勢をもつことが大事だと、あるひとから教えてもらった。
どの人も、自分の出した答えに迷いながらも整合性を持たせようとしている。
外圧がかかっても、耳に入れた上で自分が下した判断はあくまで自分自身が今いる環境も含めて選び取った結果に他ならない。
判断しなければならない局面が増えて、実はたくさんお客様や周りの人の価値観に触れる機会が増えたという思わぬ副産物があった。
「私はこれを大切にしているから、今回はこうします」
「私はこれは納得できないから、これはしません」
今まで「問題なくうまくいっている」と思ってきた関係が、実は表面的でただただ「揉めない」「波風を立てない」ためにお互いに合わせてきた関係だったのかもしれないという視点に意識を向けられた。全員が右向け右で同じ回答にならずとも、判断の裏にある真意や根拠を伝えてくれるような関係性を構築できたことは、むしろ小気味好いくらいである。
そんなわけで、2時間という制限のおかげでむしろ追い込まれながら、週末の図書館に通うという新たな趣味が私の生活のリズムに刻まれたのだ。カバンの中にはいつも、図書館のゲートをくぐった瞬間に検察機の前で1秒も迷わず検索できるように次に読む本のリストが控えてある。
「不要不急ではありません」
どこで誰に問われても、ギョロっと振り返ると同時に間髪入れずにそう言おう。
そんな風に自分の行動について理由を持てるようになったことについては、少しだけこんな状況に感謝さえ感じてしまっいる。