妄想色男図鑑 2
アナウンサーAの場合
城はいい。何百という戦を経ても、何事もなかったかのようにそびえる余裕というか。無数の人間が押し寄せるのに辟易としながらも、その場に居続けるしかない諦念というのか。自分の職業にも似たそのたたずまいを背に、男はため息をついた。
アナウンサー人気ランキング、という下世話なものに自分が載るようになったのは10年ほど前からだ。女性と違い、男性アナウンサーの場合はルックスというよりは番組運びのうまさや脇役としての分別、そして私生活でも清廉そうなイメージが鍵を握る。そういう意味でまさに鉄壁の条件を兼ね備えていた男の名前の横には、息子にしたい、というような読者の声が踊ったものだ。実際にそのような旨が書かれた手紙をもらったこともある。76歳の主婦と名乗る差出人は、ご丁寧に自分がいかに豊かな暮らしと文化基盤を持っているかを語り、近影まで同封していた。達筆に見せようとする業の深さが見える、読みにくい字だったと男は思う。
最近はめっきり減った地方局への出張。そのわずかな休憩時間だった。午後からは何度か仕事を共にした女優を迎えるラジオの仕事だったが、男にはもはや、くたびれた愛人に相対するような倦怠があった。なれ合いと言うにはさすがにおこがましいが、親しみと言うほどではない。食事は何度かするものの、妙な業界のしきたりや忖度が、芸能人本人というよりはその取り巻きたちから暗黙のうちに求められるのがわずらわしかった。事実、危うい一線を奢りから踏み越えて、業界から消えた人間を何人も見ている。その先は、男は知らない。知りたいとも思わなかった。
門は開けるけど、玄関は開けないのね。ラジオブースで向かいに座ったくだんの女優は、CM中に男の距離感をそう評した。よくご存知で、とさらりと受け流した男に、そういうの、仕事では良くても、女の人は寂しいと思うよ、とまんざら冗談でもない様子で、にこやかに老婆心をつきつけてくる。
買いかぶりでしょう、と苦笑する。城を見ろ、あの堅固な城を。玄関どころか門さえ開けなかったからこそ、ああして今も建ってられるのだ。
俺は会社員だ。一介の。芸能人でもなければ、どこかのセレブな老女の自慢の息子でもない。うっかり隙を見せたら最後、本丸が炎上して大崩れ、なんて目も当てられないじゃないか。
だが目の前の女は焔のような熱をその目にたたえ、炎上上等という顔で見つめてくる。既成事実作った方が腹がくくれるってタイプ?いっそ写真誌に撮られちゃったり、とか。大砲と評される、名うてのゴシップ誌の名前を女は挙げる。そういえばこないだあなたとも行ったお店の周り、ウロチョロしてたみたいなんだよね。
まずいな、これ、外堀埋められ始めてるのかな。傾城、という表現を思い出す。新人の頃、読み仮名を間違えた。あの言葉はアナウンス辞典に載っていたんだっけ。CMが空けてディレクターの声がかかり、男はいつものように言葉を紡ぐ。息子にしたい、愛される男性アナウンサーそのものの、誠実でほんの少しお茶目な、安心感を持って。空虚な言葉を紡ぎ続ける男の足に、女のつま先が触れた。
ベテランと呼ばれて久しい男の声が一瞬止まる。それは息継ぎと言っても差し支えないほどの、わずかで、静かな瞬間だった。
声を出さずに目の前の女が笑うと、赤い口紅で象られた唇が毒花のように開いた。男の意識の中の城さえ飲み込むような、大きな口だった。