妄想色男図鑑 3
アスリートNの場合
スポーツをしている時以外はただの人だね、と彼女は言う。それは昔から母や姉や、周囲にいた女性から言われてきたことだった。
男性はいくぶん、侮蔑のニュアンスを込めて言うのと対照的に、多くの女性の声にはバカな子ほど可愛いというような、母性というほど聖なるものでもないが、まあるい残酷さと背中合わせの愛情が見えた。
フォークに巻きつけたパスタを落として、あ、と男はカエルが鳴くような声を上げる。目の前にいる彼女はうれしそうに「ほらあ、そういうとこ」と言って頬を撫でた。
彼女が報道でなんと言われているかはなんとなく知っている。いくら鈍いと言われる男でも、そよ風のような悪意ははるばる異国の地まで届いてきていた。確かに、彼女は知名度はない。頭も、育ちだってあまり良くはないだろう。俺の金を勝手に使っているのも知っている。だけど俺は、そういうバカな女が好きなんだ。バカだ、鈍い、意外と普通。小さい頃からなぜか自分に向けられてきた言葉を思い返す。
スポーツの世界で瞬く間に腕を上げ、ランキング上位の常連になり、異国の地でトレーニングしていたおかげでバイリンガルになった。世界のどこでも稼げる能力と語学力を持つ若者には、昭和生まれの年上の男たちほどやっかみを向けてきたように思う。思ったより普通の男の子だね、と言う相手の顔には傲岸な自尊心と安堵の表情が見えたことも少なくない。近寄ってくる女たちも、バカねえと言いながら、表情には親しみが増えていく。そんな態度にはもう慣れた。流れに任せるだけだ。辛い練習だろうと、デートだろうと、ベッドだろうと。ただし避妊だけはしとけよ、コートに倒れこむようにベッドで寝ていた時、コーチの言葉がふと蘇った。まだ汗をかいている女の肌の感触を払いのけ、慌てて股間を確かめる。
何やってんの。気だるげに女が言う。バカだね。そう男に言うことが、大人の女の特権かとでも言うように。だがそんな女の幼稚さに、世間知らずな振る舞いに、そう、ありていに言えばバカさ加減に、男だってホッとしていたのだ。連日の過酷なトレーニングと、ちょっとしたことで上下するランキングと、周りを嗅ぎまわるメディアや人々の詮索がふりほどけない毎日は、たかだか20代の若者が笑って受け流せるものではなかった。緊張感はやがて澱のようにたまると不快感とだるさに変わり、時として暴力的な衝動や性欲に変わることさえあった。その飼い慣らせない幼稚な衝動を、彼女が一定は吸収してくれていたのだ。主に身体で。
まあ、私もバカってよく言われてるのは知ってるけど。今度こそ大人の、いや老婆のような昏い光をその目に宿して女が言う。自分の萎えた性器を串刺しにするような冷えた声音に、「やっぱり、俺は、バカだった」と悟った。