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うつわのおはなし ~益子焼・濱田庄司の世界に魅せられて(前編)~


うつわ好きの私。今は有田を中心とする九州のやきものに夢中になっているのですけれど、昔はそうではありませんでした。最初におネツをあげたのは、栃木県の益子焼です。思い起こせば まだ十代の頃から、何度もその地を訪ねていました。

時に重厚さや大胆さを醸しながらも、ぬくもりやあたたかさが漂うあの雰囲気が好きだったのです。
いえ、“だった”のではなく、現在進行形。いまも時折益子焼のうつわを使うと、気持ちが和らいで ほのぼのした世界にいざなわれるように感じます。

ちょっぴりご無沙汰してしまったnoteですが、今回はその益子焼のことをおはなししてみたくなりました。
そして、具体的に益子の何を…と考えてみたところ、益子焼を語るなら、民藝運動を推進した 濱田庄司のことに触れずにはいられないでしょうと思い至りました。
益子焼といえば濱田庄司! 濱田庄司といえば、益子焼(だけじゃないけど…)なのです。

というわけで、今回は その濱田庄司のことにたっぷりと触れながら、益子焼の歴史や特徴などを私なりに綴ってみたいと思います。
濱田庄司については おもに、濱田庄司のエッセイ集『無盡蔵むじんぞう』(講談社文芸文庫)を参照しています。言葉の引用も、全てこの本からのものです。

また、私は昨年の夏に、久しぶりに益子を訪ねましたので、その時の写真も何枚か添えました。
うつわ好き素人が綴るエッセイです。 久しぶりに書きはじめたら止まらなくなってしまって… 長文になりました。ご興味とお時間がありましたら、どうぞおつきあいください。


益子町『陶庫』にて




益子焼の概要

益子焼の里・栃木県芳賀郡益子町は、茨城県との県境に接する県の南東部に位置しています。関東屈指の窯業地であり、陶器市には多くの人で賑わう人気のやきものの里です。
製品は、民衆の暮らしの道具やうつわが中心です。


益子焼の歴史

益子にはじめて窯が開かれたのは、江戸時代末期・1853(嘉永6)年のこと。おとなり笠間で生まれ、作陶技術を学んだ大塚啓三郎が、益子で土を発見して「根小屋窯」を開窯したのが始まりだと伝わります。
江戸時代後期といえば、やきものは藩にとって財政をうるおす重要な産物でした。当時益子を治めていた黒羽藩は益子焼を藩窯として保護奨励し、その製品は江戸に運ばれ広く販売されたといいます。益子焼が誕生するまで、関東には笠間しか窯場がなかったそうですから、藩は益子焼の将来性に大いに期待し、力を注いだのでしょう。
その後、 1871(明治4)年の廃藩置県で民窯となりましたが、1885(明治18)年に東北本線が宇都宮まで延長され東京へのアクセスが容易になったことも追い風となり、明治中頃には盛期を迎えました。(その後浮き沈みがありましたが、そこは割愛します。)
そして、民藝運動を牽引する濱田庄司が1924(大正13)年に移り住み、益子焼の作品を次々と世に送り出したことから、益子焼の名前は広く知れ渡ることとなりました。1977(昭和 52)年には濱田により「益子参考館」も開館しており、先述のとおり、益子焼と濱田庄司は切っても切れません。
益子焼は現在も、関東を代表する窯業地として活動を続けています。


ヘッダー画像:『益子参考館』の濱田庄司の工房


益子焼の土と技法と特徴

✽ 土と特徴
益子のうつわは、手にとってみると少し厚みを感じます。薄造りには向かない土なので、ふくよかで ぽってりと、あるいは堅固でがっしりとしているのです。
濱田庄司によると、益子の土は「公平にみて、中の中かせいぜい中の上というところだろう。だがその格としては純粋であり、生きている。」とのこと。

土の性質上、形はシンプルで、人間味あるあたたかなイメージを漂わせています。


✽ 技法
その土は鉄分を多く含み、焼き上がりは濃い茶色やグレーの色合いをしています。その上に白化粧(白土や白濁釉をかけること)をして、文様を描いたものが多く見受けられます。

わたしの。
こちらも。


おもな装飾技法は、釉薬による櫛描き指描き流し掛け(流し描き)などで、赤絵が施されることもあります。素地が白い土ではないので、例えば有田焼のように鮮やかな絵柄ではなく、味わいと趣のある色合いに仕上げられます。
伝統的には特に、山水画を描いた「山水土瓶」が有名です。



バーナード・リーチ作:赤絵皿(『益子参考館』展示)
「山水土瓶」。この絵を描き続けた 皆川マス さんは有名人。
画像引用:日本遺産ポータルサイト

なお、濱田庄司が益子にもたらした「スリップウェア」の技法については次回におはなしします。


釉薬ゆうやくうわぐすり
うつわの表面にかける釉薬は、並白(透明)、糠白(白色不透明)、青釉(緑色不透明)、柿釉(茶褐色不透明)、黒釉(黒色半透明)、飴釉(飴色透明)、灰釉(透明光沢)が益子の伝統的な釉七種とのこと。それに英国風の「ガレナ釉」などが使われます。
中でも濱田によると、「基本のものは並白という、一番当たり前の、透明なうわぐすり」だといいます。

本の中で濱田は、益子の釉「並白」の材料となる “灰” について語っており、私は感慨深く読みました。
その部分をざっくりとおはなししますと―

並白は、地元の石と木灰きばいを同分量で配合しますが、その木灰は、田舎の囲炉裏端にある灰が良く、中でもなるべく長く焚きためたものが良いとのこと。
燃え切って白くなった灰が古くなると、アルカリ分が染み出て黄色になり、そこまで待つと一番良い灰になるのだそうで、そのようなものは「よそに頼んでおいたんじゃできません」。
自分の家の炉端で下の方にたまっている灰を、大事に大事にとっておいたそうです。
昔は木灰を水に溶かし、上澄みの灰汁を媒染剤ばいせんざいとして染物屋が使い、その残りの灰かすを、焼物屋がうわぐすりの材料としたのだとか。
染物屋は絹でも綿でも大切に染めるため 良質の灰を求めるようになり、その残りの灰をもらうのは焼物屋にとって好都合。さらに灰の条件としては太い幹よりも細い枝が良く、炉端に火をつけるときは付木つけぎを利用していたことも良かったそうです。

そんなかつての暮らしと やきものの関係を知ると、その一連の営みをなお愛おしく感じます。


濱田庄司と益子焼

お伝えしましたとおり益子焼は、濱田庄司(1894~1978年)により、広く知れ渡ることとなりました。濱田庄司は、柳宗悦河井寬次郎とともに民藝運動を牽引した、世界的陶芸家です。

左から濱田庄司、柳宗悦、河井寬次郎 (『益子参考館』の展示)


学校卒業後に就職した京都陶磁器試験場では、河井とともに釉薬の研究に勤しみました。計1万回にもおよぶ釉薬の調合テストを繰り返し、のちに「基礎の大変いい勉強になった」と振り返っています。そのことば通り、益子では、先述の釉七種や 英国風のガレナ黄釉などの組合せから、限りない変化を生み出したと言われます。

濱田は自身の活動の軌跡を、「私の陶器の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と要約しているように、京都で釉薬の研究に没頭した後、陶芸家としての活動をイギリスでスタートさせました。1920(大正9)年のこと、バーナード・リーチとともに渡英し、セント・アイヴスという農村で窯を築いたのです。(リーチについては次回。)
濱田とリーチが出会ったのは、そのわずか2年前のことでしたから、互いの志に共鳴し、急速に意気投合して ともに道を歩むことになったのでしょう。

そして帰国後、1924(大正13)年に益子に移住し、益子の陶土や釉薬を基本とした独自の作風を確立して、1955(昭和30)年には民芸陶器の重要無形文化財保持者に認定されています。
重要無形文化財保持者(=人間国宝)の制度は、この1955年にはじまったそうですから、濱田庄司は人間国宝第1号ということになります。ちなみにこのときには、陶芸分野で濱田の他に3名の方がいわゆる人間国宝の指定を受けられているようです。


帰国後の移住先は、益子にするか沖縄にするか迷ったほど、沖縄にも惹かれていたという濱田。益子に移住した後も、毎年冬にはあたたかな沖縄で過ごし、沖縄の地でも作陶しました。

おはなしは逸れるようですが、沖縄には「厨子甕ジーシガーミー」という独特のやきものやちむんがあります。人骨を納めるための、いわゆる骨壺です。当初はかめ型だったそうですが、その後 首里城をかたどった御殿ウドゥン型のものが生まれました。

本の中には、濱田の朋友・柳宗悦もたびたび登場しますが、柳を敬愛していた濱田は、柳が亡くなった際、仲間とともに駆けつけ、献花や供物、燭台、香炉など 故人に最も相応しいと思われるしつらえをして、「柳が好きだった沖縄の古い 厨子甕 を中央に据えて、遺骨を納めました。」と記しています。
1961(昭和36)年、濱田が67歳の時でした。ともに民藝の世界を歩み続けた友との厚い友情と、その友への感謝と労い、そして自身の民藝に対する責務を感じます。
柳宗悦は日本民藝館の初代館長。濱田庄司はこの年、柳のあとを継いで二代目館長に就任しました。


沖縄の「厨子甕」。(『益子参考館』展示)
装飾は多様。豪華なものもあります。(こちらも『益子参考館』展示の厨子甕)



さて、お話を益子に戻したいのですけれど、ここから先がまた長くなりそうです…。
今回はここまでにして、続きは次回に―

と、その前に…。
文中で参照している濱田庄司著『無盡蔵むじんぞう』について、触れずには終われない気分になっています。
この本は、とにかく刺激と示唆に富んでいるのです。すくなくとも私にとっては名言の宝庫!
その中から濱田の言葉をふたつ、ここに置きたいと思います。
ひとつめは、濱田の残したエピソードの中でも おそらく最も有名なものです。




ひとつめ。バーナード・リーチの希望により、濱田が流掛ながしかけの大皿の制作を、何人かの前で披露したときのこと。
“出来るだけ意識を抑えて一気に手許まで描き流す”という、その様子を見学したある訪問客から、
これだけの大皿に対する釉掛くすりがけが 十五秒ぐらいきりかからないのは、あまり速すぎて物足りなくないか」と尋ねられ、濱田が答えた言葉です。

「これは十五秒プラス六十年と見たらどうか。」

P15『一瞬プラス六十年』


ふたつめも、それに通ずるような言葉です。別の箇所で語っています。

「地上には樹木の形と花のように咲いたものがあるんですけども、実際は、その地下に根があって、見えないところの根が自分を呼んでいるんだと、(中略)
枝や花で勝負するより、根で勝負をしてほしい。また花の結果を実を結んだ時と思わず、その実が地へ沈んで来春芽を出した時を答えとして取りたいのです。」

P101『私の歩んだ道』



濱田庄司作 流掛の大皿。(『益子参考館』展示)



長文をここまでお読みくださいましてありがとうございました。
次回は、濱田庄司らが益子にもたらした、いえ、日本にもたらした「スリップウェア」という技法から綴りたいと思います。




前編のエンディングに…
— わたしの益子焼の花器 —


本当はワイングラス。うん十年選手。



おまけ。^^






[ 後編 ↓ ]



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