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こよみだより ✽ 鏡開き ✽



「寒中」らしく、日ごとに寒さがつのる今日この頃、
凛とした冷たい空気に、赤い実が 時折やさしく輝くのを見つけて、いとおしく感じたりしています。


南天


千両



今日、1月11日は、鏡開きです。(地域によって日にちが異なります。)

供えていた鏡餅を下げて、お雑煮やお汁粉などにして頂く日です。
歳神様が 松の内の期間に宿っていた鏡餅を食べることで、エネルギーを蓄え、無病息災などを願うものです。


この風習は、室町時代に武家社会で行われていた「具足ぐそく開き」がルーツだと言われています。具足開きとは、鎧・兜などの前に供えていた具足餅ぐそくもちを、木槌などで割って食べるというなわらしです。

当時はそれを、「刃柄はつかの祝い / 二十日の祝い」と呼び、20日に行っていたのだそうです。刀の  “” と “つか” にかけたという「刃柄はつか」から転じての、「二十日」。武士らしい語呂合わせですね。

武家社会では ”切る” ことは切腹を連想させて きらわれたことから、お餅は割って砕きました。江戸時代になるとそのスタイルが一般にも広まり、現在の鏡開きに繋がったといわれます。


日にちについては、江戸初期までは全国的に15日までが「松の内」、20日(または15日)が「鏡開き」とされていたそうです。
それが関東などで、松の内は7日まで、鏡開きは11日と 日にちが早まったわけですが、その理由については 2つの説があるようです。

ひとつは、1651年(慶安4年)4月20日に、江戸幕府三代将軍の徳川家光が亡くなり、月命日である20日の祝い事を避けるようなったという説。つまり、鏡開きを早めたかったというものです。
もう一つは1657年(明暦3年)の1月に江戸で発生した「明暦の大火」を教訓として、燃えやすい松飾りなどを早めに片付けるために、松の内を7日に早めたという説が見つかります。

鏡開きを「11日」にしたのは、商家が取引先などにお餅を振舞っていた
蔵開き」の日にちに合わせたのだとか。


このように、松の内や鏡開きが早まった理由は、どちらの説も江戸の事情によるものです。
現在、地域によりその日にちが異なるのは、当時の幕府のおふれが地方にまで届かず、関西などではもともとの慣習が残ったからとも伝えられています。


なお、武家の「具足開き」、商家の「蔵開き」に対し、農家では「田打ち正月」というならわしがあり、それぞれこの日は、仕事始めの日としていました。

また、「元旦」のときに綴りましたが、鏡餅にはそのが宿っていると考えられており、その鏡餅を割って年少者に分け与えたことがおの起源だと言われています。

鏡餅は、エピソードがもりだくさんですね。




日本の年中行事というものは、ほとんどが宮中で行われていた公事でした。でも鏡開きについては武家社会からはじまったものだということは、興味深く思っています。


さあ。あんこ好きの私は、今日は お汁粉にして、ほっこりと体をあたためたいと思います。

これを読んでくださいました方にも、さらに元気の源が得られますように。





どうぞ すてきな1日をお過ごしください。











今月は、 こよみだよりで お正月シリーズをまとめるつもりでした。でも、「元旦」、「人日(七草)の節供」、そして「鏡開き」と続けたところで、自分でもちょっとおなかいっぱいになっています。(笑)
このあと15日の「小正月」などは来年にゆずり、またいつも通り、のんびりペースに戻ります。。





最後までお読みくださいまして
ありがとうございました。




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