うつわのおはなし ~麗しの三川内焼 (後編)~
長崎県佐世保市で焼かれる 磁器 「三川内焼」について綴っています。今日は後編です。
前回は、三川内焼の誕生とあゆみについて綴りました。
私は昨年11月に三川内焼の里を訪ね、趣のある山里と、麗しのうつわを堪能してきました。
その余韻は今でも続いています。
今日は、その時の写真を添えながら、三川内焼の技法と、里の様子を中心に綴ってみたいと思います。
うつわ好き素人が綴る 長文エッセイです。
ご興味とお時間がありましたら どうぞおつきあいください。
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藩窯と民窯の両輪
江戸時代のこと。平戸藩の庇護を受ける三川内の藩窯では、採算を度外視し、献上品をつくるために美しく高級な磁器がつくられました。佐賀藩から保護された有田(伊万里)などと同様です。
一方、三川内では当初、民窯として陶器が焼かれおり、磁器がつくられるようになってからもその民窯の流れは続きました。
江戸時代には、庶民に愛される 日用品としての磁器も、三川内の地で盛んにつくられていたのです。
藩窯と民窯、ふたつの顔を持っていたのが三川内焼です。
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三川内焼の技法
ここでは主に、国内の献上品や、ヨーロッパへの輸出品として愛された、藩窯の技法について おはなししたいと思います。
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❏ 染付
白地に描かれる藍色の絵や文様を染付と言います。
素焼きしたうつわに、コバルトを主成分とした「呉須」という絵の具で描くものです。
染付の技法は他の産地でも観られますが、三川内で描かれる文様には、とくに繊細さを感じます。(私は。)
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❏ 唐子
「唐子絵」は、三川内の最も代表的な絵柄。トレードマークと言ってもよいでしょう。
江戸時代には献上品として焼かれていました。
描かれる唐子の数は、1人・3人・5人・7人と奇数とされ、中でも「七人唐子図」は、朝廷や徳川幕府への献上品として描かれていたそうです。
また大名へは5人、一般の武士には3人の唐子を描いて贈られたと言われているそうですから、人数により意味合いがあったのでしょう。
昨年 三川内を訪ねた際には、どの窯元に伺っても、必ずといって良いほど可愛らしい唐子を観ることができました。
表情は窯ごとに特徴があり、自分好みの唐子に出会う楽しみもあります。
私のお気に入りは、「平戸松山窯」さんの唐子絵。献上唐子を代々描き続けた窯元です。
蝶々を追う唐子の表情が なんとも愛らしくて、ずいぶん長居をしてしまいました。
ちなみに 私は以前から、こちらの窯元の中里月度務さまのInstagramをフォローして、日々楽しみに拝見しています。
ファンですから。
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❏ 青海波
また、こちらの「青海波」も、三川内でよく見られます。
青海波は、文様の名前です。
一本一本、筆で線を描きます。
気が遠くなるような繊細な筆さばきを思うと、うつわに吸い込まれるような感覚に陥ります。
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❏ 卵殻手
「エッグシェル」、「egg-shell china」などとも呼ばれ、海外で愛されました。
まるで卵の殻のように薄く軽い磁器で、純白の生地に描かれた模様は電球のように透けて見えるほど。
卵殻手は19世紀に入って完成してコーヒーカップが輸出され、ヨーロッパの王侯貴族の憧れの的になりました。
卵殻手まではいかずとも、現在の三川内焼も薄づくりは特徴のひとつです。
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❏ 菊花飾細工
竹の道具を使って土の塊りから花びら1枚1枚を切り出し、立体的につくるものです。
この写真は以前にもアップしました。
私の手元にお迎えしたものです。
高台の部分には、青海波が描かれています。美しい。。
「平戸洸祥団右ヱ門窯」の中里一郎さまは、佐世保市指定無形文化財 平戸菊花飾細工技術保持者でいらっしゃいます。
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その他、三川内焼には「透かし彫り」や「置き上げ」という技法などがあります。
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三川内焼の里歩き
三川内の里は、静かで穏やかで、どこか郷愁をそそります。
急な坂道、古くからの窯場、山並みに映える煙突、趣のある風景。
そして、窯元の方々のあたたかな眼差し。
里には、「トンバイ塀」もありました。
トンバイ塀とは、古くなった登り窯を壊したときに出る廃材を、赤土で塗り固めている塀のことです。私が愛する有田の地にもあります。
それぞれの土地の風を享けて育っているせいか、有田のそれとは、すこし雰囲気が異なるように思いました。
どちらも素敵。
三川内のトンバイ塀は、「馬車道」という道に立っています。
馬車道はかつて、薪、陶土、やきものなどを馬に引かせて運んでいた道だそう。
道の地面中央にある突起は、馬が踏ん張る際に、蹄が滑らないようにするためのものだそうです。
お馬さん、がんばりました。
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前編の補足と、思うこと
前回から綴ってきた三川内焼。
ちょっと補足をした上で、思うことを残したいと思います。
前回、三川内焼誕生のルーツは2つある(のではないか)ということを綴りました。
朝鮮出兵の際、平戸藩に招かれた巨関と、唐津藩に招かれた高麗媼 が三川内の地で合流し、三川内焼は発展したというもの。
もちろん、日本人陶工も三川内焼の発展に寄与しており、大活躍した人物も複数いますが、長くなりますのでこの記事ではその部分は割愛しています。
巨関と高麗媼 合流の経緯については諸説あり、どちらかが どちらかを招いたものかもしれないし、そうではないかもしれないと おはなししました。
“諸説”とは、たとえば、現地当事者の方々が組織する組合のサイトでは、年表を添えながら巨関が高麗媼 を三川内に招いたのだと紹介されている一方、
九州大学の宮地英敏先生は、紀要論文の中で高麗媼 の方が巨関らを三川内へ招き入れたのだと唱えていらっしゃるということ などです。
このように、経緯詳細の真実は私などには わからないわけですが、三川内焼の歴史は、彼ら彼女らの知識と経験に裏付けされた活動により、築かれてきたことは事実でしょう。
その陶工たちの人生に思いを馳せ、三川内の、九州の、日本のやきものの発展を重ね合わせると、感慨深いものがあります。
なかでも私は、女性陶工 高麗媼 の人生に、深く興味を抱きます。
100歳の天寿を全うした高麗媼は、「棺を燃やして煙が地を這ったらこの地へ埋葬し、天へ上ったらお骨を朝鮮半島に帰してくれ」という遺言を残したそう。
煙は地を這ったため、三川内(釜山神社)に祀られることになったと伝えられます。
高麗媼 は、どのような思いで故郷朝鮮を離れ、どのような思いを抱きながら日本で作陶活動に邁進していたのでしょう。
唐津領で日本人陶工と恋に落ち、結婚し、そして死別して。
その後三川内に移るときには、どのような覚悟と決心があったのでしょう。あるいは前途洋々、希望に満ちていたのでしょうか。
いつかもう少し、深く知ることができたらと思っています。
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三川内焼の歴史は、少し有田に似ています。
朝鮮半島からの陶工により肥前国に誕生し、藩の窯が築かれて、白く美しい磁器を焼きました。
どちらも江戸時代には国内外で高い評価を受けています。
けれど三川内は、明治以降 今日に至るまで、華やかに展開し続ける有田とは、少し歩む道が異なるように思います。
知名度も異なることでしょう。
その理由についても、いくつかの説が見つかります。
でも、私は あまりその理由には興味を抱きません。
三川内の地でも400年の伝統を守りぬき、技術を継承し、真摯に美しいうつわをつくり続けられていることに間違いはないのですから。
この麗しいうつわは、昔も今も、多くの人を魅了するものだと思っています。
ちなみに、巨関の子・三之丞からの日本名は「今村」、高麗媼 の日本名は「中里」。
現在、三川内の里には、今村さま、中里さまとおっしゃる複数の方々が窯を営んでいらっしゃいます。子孫の方々です。
脈々と伝統が受け継がれる理由は、ここにもあるのでしょう。
個々の窯の存在が、三川地焼の美を現代まで支えているのです。
前回から長々と綴りましたが… ちょっとでも三川内焼の魅力をお伝えできていたら良いなあと思います。
おしまいに、平戸松山窯さんの写真をあと何枚か。中里さまの作品です。
先代の奥さま(と思われる方)からの 「たくさん撮ってね。」という あたたかなお言葉に、素直に甘えさせて頂きました。
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展示場には、いくつかの愛らしい ストラップも並んでいました。
これは、おいくらですか? の私の問いに、
お気に召したなら、差し上げますのでお好きなのを選んでくださいね、と奥さま。
おねだりしたつもりじゃないのでとアタフタする私に、
「そんなに遠くから来ていただいて、うれしいの。
それに私はね、人さまが喜んでいるお顔を見るのが大好きなのよ。
私のために お持ちになって。ね。」と。
直径約 1cmのトンボ玉。 細い筆で 細かな絵が描かれています。
この長文を最後までお読みくださいました方へ、喜びのおすをわけを。
♡
お読みくださいまして、
ありがとうございました。
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