和菓子日記 〜和菓子の〈はじめて〉物語展へ〜(前編)
先日、虎屋文庫の資料展『和菓子の〈はじめて〉物語展』へ行ってきました。虎屋赤坂ギャラリーで、11月23日まで開催されています。
和菓子の由緒や由来を知りたいなと思ったら、虎屋文庫に頼るのがいちばんだと思っている私。
今年はその虎屋文庫が、創設50周年を迎えられたのだそう。節目の年の資料展です。
ぜひぜひ行きたいと思いつつ、気付けばあっという間に月日が流れていました。会期中の私の休日はあとわずか。慌てて都合をつけて馳せ参じました。
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11月某日
10時すぎ。東京メトロ銀座線の赤坂見附に降り立ち、A出口から表に出ると、空気はひんやり。見上げれば気持ちの良い青空が広がっていました。
右手に赤坂御所の大きな樹々を眺めながら、青山通りをてくてく歩き、6〜7分で虎屋赤坂店に到着。
会場に入ると、和菓子の “はじめて物語” が、ずらりと展開されています。羊羹にカステラに、最中に大福に。金平糖に金つばに、それから他にもいくつもの「はじめて」が。
これを無料で観ることができるなんて、なんとありがたいことでしょう。
文字情報だけでなく、「はじめて」を精巧に再現した模型(? 質の良い食品サンプルみたいなもの)も展示されており、視覚的にも今昔を比較することができます。
エビデンスとなる古文書や錦絵などもわかりやすく展示されていて、「ほー」「へぇ」と声がもれそうです。
それぞれの和菓子について語れば長くなりますけれど(そして私にはそう簡単に語ることができませんけれど)、おもしろいと思うものをひとつだけ。『金つば』の名前についてです。
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金つば(漢字では金鍔(鐔) )は、江戸時代前期に京都の清水坂で誕生した「銀鐔」にはじまるのだそう。
現在は四角が主流の金つばですが、誕生時には “刀の鐔のように” 丸い形をしていました。また京都では取り引きが銀貨主体だったため、「銀の鐔」の意味で「銀鐔」と名付けられたようです。
後にそれが江戸に伝わると、江戸では金貨遣いだったため、「金つば」に改名し、生地の原料も、うるち米から小麦粉に変えたのではないかと。
この “丸い”「金つば」は、いつしか現在の “四角い”「金つば」になるのですけれど、おもしろいのは その名前の変遷です。
最初に、江戸は 浅草南馬道の菓子屋で販売されたといわれる四角い金つばは、「みめより」という名で売り出されたのだそう。「人はみめより ただ心」(見目=顔 より心の美しさが大切の意のことわざ)にかけたネーミングです。見た目より味が良いということを表現したのですね。お店には、おかめの面を看板として掲げていたとも伝わるそうですから、その江戸っ子の洒落に 笑みがこぼれます。
その後、四角い金つばは、「江戸金つば」や「角金つば」とも呼ばれるようになり、やがて「金つば」の名に定着したのだとか。
ちなみに、丸い金つばは、小麦粉生地を薄くして餡を包むのに対し、四角い金つばは、水溶きしたものを角形の餡のまわりにつけて焼くのだそうです。
四角くすることにより、量産に適した製法でつくれるという利点があったのですね。
それにしても、“見た目よりも味” の庶民の和菓子は、江戸の真骨頂と言えるのではないでしょうか。「みめより」の名が消えてしまったことをちょっぴり残念に思うのは、私だけ...?
上記「金つば」の名については、資料展での展示内容と併せ、虎屋文庫の書籍『和菓子を愛した人たち』の内容も加えています。
京都の「銀鐔」から、形も 原料も 製法も変えて誕生した現在の「金つば」。
今回の資料展では ”名前の出発点“ を起源と捉え、京都の銀鍔が はじまりとされていましたけれど、本の中では実態に則し、金つばは「江戸で生まれた菓子」と表現されています。
資料展の冒頭には、「(前略)起点をどこに置くのかが悩ましい。(中略)名前か実態か、視点によって、はじまりも変わるのである。」とありました。金つばはその一例なのでしょう。
和菓子は深いですね。
ちなみに。『どら焼き』はもともと、大形の丸い金つばをそう呼んだのだそう。
丸く大きい金つばは、楽器の銅鑼に似ているから「どら焼」。小さいのは「金つば」。意外にも両者は製法が同じだったそうです。
深いだけじゃなくて、やっぱり和菓子はおもしろい!
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さて、日記の続きを。
と思うのですけれど、少し長くなりました。
今回はここまでにしたいと思います。
次回は、3階の『虎屋菓寮』で頂いた いにしえの和菓子と、2階のショップでお土産にした お月さまの和菓子について綴りたいと思います。
ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。
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