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イエスの受難とヘンデルの最期


はじめに

今年もヘンデルの命日、4月14日が近づいてきました。
実は、ヘンデルの最期は教会暦におけるイエスの受難と符号するところでしたが、実際は1日ずれてしまいました。
 
イエスは4月13日の金曜日に受難し、15日の日曜日に復活しました。
キリスト教の教会歴ではこの受難の金曜日を特別に「聖金曜日」Good Friday、復活の日曜日を「復活祭」Easterと呼びます。
 
ヘンデルの亡くなった年の教会歴では4月13日はまさに「聖金曜日」で、15日は「復活祭」でした。亡くなる1週間ほど前からはっきりと死を覚悟していたヘンデルはイエスと同じように、13日の「聖金曜日」に神に召されることを心から願っていたのですが、、、、、、、、。

教会歴において4月13日がイエスの受難の「聖金曜日」と重なることは稀なこと

「復活祭」毎年移動しますが、その決め方は「春分の日以降の最初の満月の次の日曜日」と定められています。これにより「復活祭」が定められると、それに先立つ「聖金曜日」や「四旬節」(受難節)は自動的に定まります(「四旬節」については私の前の記事「クリスマスローズとヘンデル」を参照してください)。
 
ちなみに今年は、「四旬節」は2月14日(水=「灰の水曜日」)から始まり、3月29日の金曜日が「聖金曜日Good Friday」、3月31日の日曜日が「復活祭Easter」でした。
 
以上を踏まえて、4月13日が「聖金曜日」、15日が「復活祭」となることがどのくらい稀なことか、教会歴で確認してみました。
その結果、1900年以降、今年2024年までの125年間で、このような教会歴となったのは1900年、1906年、1979年、2001年の4回だけでした。2001年の次は2063年で、今年2024年からは39年も後のことになります。平均するとおよそ30年に一度くらいの頻度です。
 
いかがでしょうか。教会歴において4月13日が「聖金曜日」となるのは人生において一度巡ってくるかどうかの稀な年なのであり、ヘンデルが神に召された1759年はそのような年だったのです。

死を意識し始めるヘンデル

ヘンデルは1759年に74歳で亡くなるまで、休むことなく精力的に劇場活動を展開していたため、晩年まで頑健な肉体の持ち主だったと思われがちです。しかし、晩年のヘンデルは病との闘いが絶えませんでした。
 
人生初の大病は1737年、52歳の時でした。恐らくは暴飲暴食に起因する麻痺障害を起こしています。作曲や劇場活動はもうできないのではと心配されましたが、温泉療法などで奇跡的に回復しています。
1750年、65歳の頃、ヘンデルは死を現実のものとして意識し始めています。なぜなら1750年6月1日に遺書を書いているからです。
1751年には視力が著しく衰え、新作オラトリオ《イェフタ》の作曲も一時、中断せざるを得ないほどでした。《イェフタ》はなんとかこの年の8月に完成させますが、これ以後ヘンデルは劇場用の新作は作曲していません。
1752年には脳の麻痺障害も起し、視力も一層悪化し、白内障の手術も受けていますが、うまくいきませんでした。
1753年1月には「ヘンデルは完全に視力を失った」と新聞が報じています。
作曲活動はほとんどしなくなっていましたが、劇場活動は1759年、死の年まで継続しています。
ただ、1755年以後は自分でチェンバロやオルガンを弾きながら指揮することはできませんでしたので、それは弟子のJ. Ch. スミスに委ねていたと思われます。

原種チューリップ

1759年、死の年のヘンデル

晩年のヘンデルは四旬節の期間中に、コヴェント・ガーデン王立劇場で、10~12回のオラトリオを上演するという興行スタイルを確立していました。
自ら興行主も兼ねていたヘンデルは失明などの病気を抱えながらも、この「四旬節オラトリオ・シーズン」を最後の年まで継続しています。
 
最期の年、1759年は2月28日から「四旬節」が始まりました。
例年どおり、四旬節の最初の金曜日、3月2日から「四旬節オラトリオ・シーズン」を開幕し、毎週水曜日と金曜日に公演を行っていきます。
《ソロモン》(2回)、《スザンナ》(1回)、《サムソン》(3回)、《ユダス・マカベウス》(2回)と続け、いよいよ3月30日(金)から《メサイア》を3回上演します。
「四旬節オラトリオ・シーズン」の最後を《メサイア》で締め括ることは晩年にはすっかりパターン化されていました。これに倣い、最期の年は3月30日(金)、4月4日(水)、4月6日(金)と計3回、《メサイア》を上演し、全11回公演から成る1759年「四旬節オラトリオ・シーズン」は無事終了となりました。

グレー塗りつぶし部分=四旬節(日曜日は含まず)

4月6日、恐らく死力を振り絞ってシーズンを終えたヘンデルは一気に疲れが出たことでしょう。終演後、帰宅したヘンデルはそのまま床に臥すと、二度と床から起き上がることはできませんでした。
 
ただ、死を眼前に控えたヘンデルにとって、この年の教会歴のめぐり合わせは大きな慰めであり、救いでした。床に臥したヘンデルはイエスと同じ4月13日の聖金曜日に息を引き取ることを心に決めます。
そして、イエスが復活したと同じ15日には自分も復活し、すぐさま主イエスと会えると、心の底から信じていました。ですから、ヘンデルは死を恐れていません。むしろ、死を主イエスに会うための通過点として捉え、喜びをもって受け入れようとしていたとさえ思われます。
 
これは決して私の勝手な憶測ではありません!
ヘンデルと同時代の有名な音楽史家Ch. バーニーが死の直前のヘンデルの様子をこう伝えているのです:
 
「死の数日前、彼は聖金曜日に息を引き取ることを真剣に、心の底から望んでおり、『主の復活の日に私の良き神、私の愛する主にして救い主にお会いすることを願っている』と語った」
(クリストファー・ホグウッド著『ヘンデル』三澤寿喜訳:1991年、東京書籍)
 
そしていよいよ13日の聖金曜日となります。
この日のヘンデルの様子について、ヘンデルの友人ジェイムズ・スミスはバーナード・グランヴィルに宛てた4月17日付けの手紙でこう書いています:

(聖)金曜日の朝、彼は友人達皆に別れを告げ、医者と薬剤師と私以外には誰にも会いたくないと言いました。夕方7時、彼は私に別れを告げ、「(天国で)また、会おう」と言いました。
私が去ると、彼は召使に「この世のことは終わったのだから、もうお前もこの部屋には入って来ないように」と命じました。
神に対して己の果たすべき真の任務を自覚した良きクリスチャンとして、また、全世界に対して慈しみの心をもった男として生き、そのようにこの世を去ったのです。
(クリストファー・ホグウッド著『ヘンデル』三澤寿喜訳:
 1991年、東京書籍)
 (  )筆者補足

実際にはヘンデルは翌4月14日土曜日の朝8時前に神に召されました。
葬儀はヘンデルの希望どおりウェストミンスター大寺院において4月20に執り行われ、3年後には同寺院にヘンデルを記念するモニュメントが建てられました。
 
そのモニュメントでヘンデルが手にしている楽譜は《メサイア》第3部の冒頭で歌われるソプラノのアリアI know that my Redeemer liveth「私は知っている、私を贖う方が生きておられ」です。
聖書から引用されたこの歌詞は、「今はの際」におけるヘンデル自身の確信を代弁しているようで、感動的です!

ソプラノの広瀬奈緒さんの清澄な演奏でお聴きください。

https://www.youtube.com/watch?v=5tt_XtrYAbE


補足
* このモニュメントではヘンデル像の下の生年月日がローマ数字で1684年2月23日とあります。ヘンデルは1685年2月23日生まれですので、まちがいのように思われます。しかし、同寺院の公式HPでの説明にあるとおり、これは古い「イギリス歴」による表記であり、間違いではありません。
 https://www.westminster-abbey.org/ja/abbey-commemorations/commemorations/george-frederic-handel


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