続・続・美しい古都チェスキー・クルムロフとバロック・オペラ~~幻想的な城内劇場とバロック・オペラが創り出す非日常の世界~~その3 城内劇場とバロック演技(ジェスチュアgesture)
バロック演技(ジェスチュアgesture)
オペラが詩、音楽、演技、衣装、舞台効果(背景、照明、機械仕掛け)などを含む総合芸術であることは言うまでもありません。中でも、バロック・オペラにおける詩と音楽と演技の緊密な結びつきは、19世紀以降のオペラに親しんだ我々の想像をはるかに超えています。
バロック時代においてはオペラや演劇などの劇場娯楽における演技はジェスチュアが用いられていました。ジェスチュアとは人間の様々な意志や感情を特定の身振り、手振り、姿勢などで表すものです。ゲーテ(1749~1832)もジェスチュアについて述べた言葉が残されていることから(後述)、劇場においてジェスチュアを用いる習慣は少なくとも19世紀初頭までは続いていたと思われます。音楽史の時代区分で言えば、バロック(ヘンデル)、古典派(ハイドンやモーツァルト)、ロマン派初期(ベートーヴェンの晩年)まで含まれることになるのです。
言葉の意味をより説得的に、あるいはより効果的に伝えるための身体表現=ジェスチュアは弁論術に付随するものとしてすでに古代ギリシャ・ローマ時代から、政治家、思想家、宗教家、弁護士など、相手を説得する立場の人々によって意識的に用いられてきました。そのことを裏付ける文献が早くも1世紀に存在します:M. F. クインティリアヌスM.F. Quintillianus, Institutio Oratoria『弁論術教書』全12巻:その第11巻「修辞学的表現について」の中にジェスチャーに関する章。
以来、日常生活上の礼儀・作法や仕草などとしても用いられ、16世紀にはいくつもの関連文献が残されていますが、特に17世紀(1600年代)のバロック時代に入ると、演劇やオペラといった劇場文化の発展に伴い、ジェスチュアは体系化され、高度に様式化されていきます。
たとえば、J. バルワーは「手」のジェスチュアを詳細な図解とともに解説しています: John Bulwer, Chirologia: Or The Natural Language of the Hand. Chironomia: or The Art of Manual Rhetoric. London, 1644
その中には今日の日常生活や教会の礼拝などで使用されているものもあります。
たとえば、
右手親指を上に立ててApprovo=賛意を表します
相手の頭上に右手の掌を開いたまま軽く添える仕草はBenedico=祝福を表します(キリスト教の牧師や神父が信徒を祝福する場面)
両手を天に向かって高くかざすのはAssevero=誓いを表します(礼拝の最後に神に誓う場面)
格調高いバロック・オペラ
ジェスチャーには3つのスタイルがありました。
1)平明な、あるいは口語的スタイル=会話用
2)壮大で格調高い叙事詩的スタイル
3)中間的スタイル
バロック・オペラ、中でもヘンデルが作曲していたオペラ・セリアと呼ばれるものは、歴史や神話などから題材を採った英雄ものが主でしたので、台本(歌詞)自体がすでに格調高い文体で書かれていました。当然のことながら音楽もジェスチュアも台本を反映した格調高いスタイルで統一されていました。詩と音楽と演技はともに調和し、一体となっていたのです。
バロック・ジェスチュアの基本理念
バロック時代の演劇論では、日常の振る舞いをそのまま模倣することは芸術的ではないと考えられていました。人間の立ち姿も肩や腕の力を抜いた、自然な脱力姿勢は美しいものとされていませんでした。むしろ、バロック絵画や彫刻に見られるような、腕や手首を折り曲げ、胴や足にも捻りを加えた姿勢こそが演技の基本であり、指先、眉、目、口元にも細心の表現力が求められました。
激しい感情を抑制的な動きの中に凝縮したジェスチュアは一瞬一瞬がバロック彫刻の連続を見るかのようであり、高度に様式化されたジェスチュアはそれ自体がまさに芸術なのです。
バロック・ジェスチュアの基本ルールと実践例
チェスキー・クルムロフの城内劇場では、チェンバロのO. マツェク氏と演出のZ. ヴルボヴァ氏を中心とするグループが精力的にジェスチュア研究と実践に取り組んでいました。
ただ、ジェスチュアの実践は至難の業です。バロック演技に関する図解入りの当時資料(16~19世紀)はかなり現存しています。しかし、それらの資料においても、人間のありとあらゆる感情表現が図解されている訳ではありません。また、個々の静止した図解ジェスチュアをいかに連続した演技とするかの資料は皆無に等しいのです。
彼等はその行間を埋めるべく、ジェスチュアに関する多くの文献に止まらず、ヨーロッパ中の城や美術館を巡り、バロック絵画や彫刻に関する膨大な資料を収集し、当時資料の欠落部分を埋める努力をし、ジェスチュア付きオペラ上演の実践に挑んでいました。
私はその活動を是非とも我が国に紹介したいと考え、ヘンデル・フェスティバル・ジャパン(HFJ)のヘンデル没後250年記念企画のひとつとしてチェスキー・クルムロフから彼らを招聘し、2009年11月21日、東京のトッパンホールにて「真正バロック・オペラ招聘公演」を実施しました:
第7回ヘンデル・フェスティバル・ジャパン(HFJ)
真正バロック・オペラ招聘公演「ヘンデル・オペラの名アリア」
以下、その公演の写真とともに、ジェスチュアの基本的なルールをご紹介します。
ジェスチュアの基本ルールについて、多くは2003年、チェスキー・クルムロフ国際会議におけるMargit LeglerとReinhold Kubikの研究発表から引用させていただきました:
Margit LeglerとReinhold Kubik
Discordia Concors, The harmony of poetry, music and action in the 18th century
The World of Baroque Theatre 2003
足、脚、体の姿勢について
体の優雅な曲線を保つため、重心は常にどちらか一方の足に置きます。
写真1、写真2のように、両足は互いが「直角」になるように立ちます。
左足(後方)に対して前方の右足が90度になるように立ち、重心は後ろ足(左足)に置いています。
両脚は決して平行にならないように。
あえて平行に立つのは道化や召使など。
平行に立つのは愚鈍の象徴となります。
ここで英雄役に扮しているフチーコヴァーさんは女性のメゾ・ソプラノ歌手です。
女性歌手が男性の英雄役?、と疑問に思われるかもしれません。
バロック時代のオペラでは男性主役はほとんどカストラートという去勢された男性歌手が歌っていました。ただ、その時の劇団に優れたカストラートがいない場合は、代わりに女性歌手が男役を歌いました。
カストラートにも音域によりソプラノ・カストラートとかアルト・カストラートがいました。当時、最も英雄役に最もふさわしいのはアルト・カストラートでしたので、その代役となる女性歌手はアルトやメゾ・ソプラノが敵役でした。
カストラート自体が存在しない今日、当時のカストラートに代わる歌手は男性のカウンター・テナーか、女性のアルト、またはメゾ・ソプラノ歌手となります。
という訳で、本公演ではチェコのメゾ・ソプラノ、フチーコヴァーさんが来日し、英雄役を歌いました。
手と腕
ジェスチャーは通常、左手の補助を受けながら、右手で行います。
その際、左手は右手と同様のジェスチャーをするが、より小さく、より低い位置で行います。
対話の場面では、右左関係なく、相手に近い方の手がジェスチャーをする主な手となります。
あえて左手を使うのは醜いものや邪悪なものを示す時です。
両腕は決して同じ方向や、同じ高さに伸ばしてはならないし、同じ高さで動かすこともしてはいけません。
腕はまっすぐ伸ばさず、常に肘を少し曲げなければなりません(写真1,2)。
手は頭より上に上げてはなりません。
肩より高くするのは"O heaven!"のようななにか興奮状態を表現するときに限られます。
絵画的興趣と美しさを保つため、体のさまざまな部分の間に可能な限り「非対称性」と「コントラスト」を作り出さなくてはなりません。
眼と顔
目のジェスチャーは手のジェスチャーに先行し、声は最後になります。
対話では、視線は相手に向けますが、顔は聴衆の方に向けたままです。
これに関連してゲーテは「顔は相手の方に少し傾ける、顔の3/4は観客から見える程度にとどめる」と言っています。
また、横向きで演じてはならず、どんな場合でも観客に背を向けてはいけません。
位置の移動
舞台袖から舞台への入場は舞台に足を一歩踏み入れた瞬間から視線や顔は客席に向けていなくてはなりません。また、目的の位置までの移動は直線的ではなく、曲線を描くように歩きます。
見せかけの見つめ合いや抱擁
既に述べたとおり、日常の振る舞いをそのまま模倣することは芸術的ではないと考えられていましたので、「弓矢を射る」とか、「ボールを投げる」といった動作をそのまますることはありません。
恋人同士が目と目を合わせて見つめ合うこともしません。
写真3のように、見つめ合っているように見せかけていますが、実際に視線を合わせることはしません。
これは恋人同士の愛の二重唱ですので、互いに相手方向に視線をやや傾けていますが、リアルに見つめ合うことを避け、互いに目と目を合わせることはしません。
次の写真4でも、恋人同士の抱擁もあくまでも見せかけであり、リアルに抱き合うことはしません(写真4)。その深い官能性と優美さはジェスチュアならでは。
また、手に手をとる場面でも、見せかけるだけで、実際は互いに手を触れることはしません。
ヘンデルのオペラ《エジプトのジューリオ・チェーザレ》第3幕、第10場(最終場)よりチェーザレ(以下:シーザー)とクレオパトラの愛の二重唱です(‘Caro’, ‘Cara’)。
以下は同じ写真のズームです:
最初は離れていた両者の距離が次第に高揚する曲に合わせて少しずつ狭まり、とうとうクライマックスで手が触れ合う(かのごとくの)演出は、リアルでどぎつい現代演出よりもはるかにヘンデルの音楽と一体化し、官能的です。
登場人物の立ち位置について
登場人物の舞台上の立ち位置は身分の上下関係を反映しています。
例えば、
高位の人物は下手(right stage)に立ち、
下位の人物は上手(left stage手)に立ちます。
階級上ほぼ同等な男女の場合は女性を高位の位置(下手側)に立たせて敬います。
right stage=舞台から見て右側(客席から見て左側)=下手
left stage=舞台から見て左側(客席から見て右側)=上手
これはバロック・ジェスチュアに限らず、上流階級のマナーとして定着していました。
写真5の場面では、エジプト女王のクレオパトラが高位の位置(下手側)に立ち、シーザーは右手(right hand)を差し出してクレオパトラの左手をとります(見せかけですが)。
ご承知のとおりrightには「右」という意味と同時に「正しい」という意味もありますね。シーザーはクレオパトラに対して「正しい手」を差し伸べているのです。
最後に:行き過ぎたバロック・オペラ演出(読み替え)
バロック・オペラは詩と音楽と演技が格調高い様式で統一された舞台芸術であったにもかかわらず、今日の多くのバロック・オペラは原作の時代や設定を他の時代(多くは現代)に移し、設定も変えて上演されています(読み替え)。そこに生じる様式の不統一には強い違和感を覚えます。
分かり易い例を挙げましょう。
ヘンデルはアリアを作曲する際、歌詞の表面的な意味だけを音楽にしていたのではなく、そのアリアを歌う登場人物の属性も同時に書き込んでいます。
「ラルゴ」という名前で有名な「オンブラ・マイ・フ」Ombra mai fuはヘンデルのオペラ《セルセ》の第1幕冒頭で歌われるものです。
序曲が終って幕が上がると、そこは宮殿の中庭。木陰でペルシア王セルセが涼をとっています。そして「木陰ほど心地良いものがあるだろうか」とのんびりと歌います。
このオペラの内容はヘンデルには珍しい、コミカルなものとなっており、セルセはいささか間の抜けた人物として描かれています。しかし、そうであったとしてもセルセが一国の王であることに違いはなく、一国の王たるものがもつ威厳や格調高さを具えています。ヘンデルはセルセの属性をこの曲を貫く基本の曲調として据え、その上で木陰の心地良さを表現しているのです。
このアリアを現代に移した設定で歌うと、舞台上の人物像とヘンデルの音楽が遊離してしまい、結果としてもはや本来のオペラ《セルセ》とは別物になってしまいます。
昨今のバロック・オペラ上演においては演出家の存在が大きくなっています。しかし、オペラ上演において演奏家より演出家が目立つのは本来のバロック・オペラの姿ではありません。なぜなら、そもそもバロック時代のオペラ上演においては演出家というものが存在しなかったからです。
オペラを含むヘンデル作品を数々指揮したイギリスの名指揮者Ch. ホグウッド氏も行き過ぎた昨今の読み替え演出に批判的でした。HFJが2010年2月公演のために氏を招聘した際、私のインタビューに応えて氏はこう言っています:
「(読み替えに対して)これ以上不平を言うのはやめておきましょう。なんと言ってもヘンデルの音楽が素晴らしいことに変わりはなく、我々には「目をつむる」という対抗手段があるのですから」
(「インタビュー:クリストファー・ホグウッド」聴き手:三澤寿喜、『レコード芸術』2010年5月号pp. 90~94)
もちろん、読み替えが絶対にだめと言っている訳ではありません。
ヘンデル作品は時代や国、宗教を超えた普遍的な魅力があり、だからこそ、今日でも聴く人を感動させ続けています。
特に、人間存在が抱える極限の葛藤をシンプルな音づかいの中に凝縮した、彼独特の濃密な音楽表現は現代人の心をも激しくゆさぶります。
ただ、そのような音楽表現の中にあっても、ヘンデル音楽の奥底には常に絶対的な格調高さが通底しています。これは決してぬぐい去ることのできないものであり、ヘンデル音楽の本質を成すものでもあります。
身に沁みついた格調高さから、ヘンデル自身も脱皮できませんでした。
オペラがすでに喜劇的で軽いブッファへと変貌しつつあった時期、ヘンデルの旧態依然として真面目で大仰で格調高いセリアは飽きられていきました。ヘンデルも新しい喜劇的なオペラに挑戦しますが失敗に終わります。誰でも得手不得手はあるのです。そこで、ヘンデルは格調高い様式をそのまま生かせる新しい劇場娯楽として英語のオラトリオに舵を切った、と私は考えています。
読み替えるにしても、演技や場面がヘンデル音楽の格調高さと調和する範囲であって欲しいというのが私の勝手な願いです。
補足:rightとleftについて
『大修館ジーニアス英和辞典』(1991.04.01 4版)によれは、rightが「正しい」という意味をもつに至ったのは旧約聖書に由来するとされています:
right「知恵者の心は右にあり(聖書)」から「右手」は「正しい」という連想が生まれた。
この聖書とは旧約聖書『コヘレトの言葉』(もしくは『伝道の書』Ecclestiastes)のことです。
その第10章、第2節にこう書かれています:
A wise man’s heart is at his right hand; but a fool’s heart at his left.
「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」(新共同訳聖書)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(昭和56年、第5刷)でleftを引くと「左」の意味しかありませんが、関連項目としてleft handで見ると「左方」「左手」とともに「不吉な」、「縁起の悪い」という意味が出てきます。
さらに、left handedには「左きき」などという意味のほかに、なんと「身分違いの結婚」という意味まで出てきます。その補足説明としてさらに「身分違いの結婚では新郎は新婦に向かって左手を差し伸べる習慣があった」とも書かれています。
つまりleft handedとは「玉の輿」のことなのですね。