四方山話5
『成功者という幸運な人たち』というエッセイは受けが悪い。そうなるだろうな、とは思ってはいた。どうも、こういうことを書くと、自分の力ではどうにもならない、運命論を語っている、と捉えらているのかもしれない。
自分の努力で運命を切り開くんだ、というポジティブな話の方が世の中の受けはいいんだろう。
人生は決まっていてどうにもならない、ということが言いたいわけでは無く、成功者であっても、「自分の才能と努力で掴んだのだ、実力なんだ、他人は関係ない」と思いあがらずに、成功も自分だけの力で得られたものでは無い、ということが言いたいだけだ。マイケル・サンデルが言いたいのもこういうことだろう。
成功に対する謙虚な気持ちがないと、生活に困っているような人々は、努力が足りない、そんな目にあっているのは自己責任だ、という論調がまかり通ることになる。実際、そうなっている。自分の境遇を嘆く人に、私も同じだったが、努力して切り抜けた、あなたは努力が足りない、という人は後を絶たない。
そういう人は自分の努力だけで切り抜けられたのか自問してもらいたい。貧乏だったが努力して奨学金をえて大学を出た、とか、がんばって資格をえて仕事を見つけることが出来た、という人は、自己肯定感に満ち溢れているだろうが、同じように努力しても奨学金を運悪く受け取れなかったら? そもそも、奨学金は誰が用意したものなのか。それが最初からなかったら?
資格を取った人は大勢いるだろう。仕事に採用されなかった人も大勢いるはずだ。上手くいかなかった人は単に努力が足りなかったのか?
実際に努力もせず、棚から牡丹餅を願うような人も居ないではない。ただ、生活に困窮しているような人全てがそんな人たちでは無いだろう。
ある仕事の採用の場で私が知識経験とも一番あったし、面接の場にいた現場の人からは明日にでも来てください、と言われたが、私は落とされた。理由は、他の人がその会社と付き合いが長いところから紹介されていたからだったらしい。その採用された人は、一月ちょっとで仕事が辛いと辞めたようだが(後になって私にもう一度来てもらえないかと言ってきたので知った。すでに別の仕事をしていたので断った)。これは、私の努力不足になるんだろうか。
私よりも高学歴で優秀な人が落とされて私が採用される、などと言う場面にも何度か遭遇した。採用担当者が自分よりも高学歴な人間は敬遠したのかもしれないし(東大卒をやたらと毛嫌いするコンプレックス丸出しの人もいた)、その仕事には本来の意味で役不足だと思ったのかもしれない。そのとき必要なパズルのピースに私は嵌っていたが、その人はちょっと大きいか形があわなかった、ということにでもなるだろう。それは、その人の努力だとかと関係のあることだろうか。こういうと、リサーチ不足だなんだという人もいるだろうが。採用条件を見た限りでは、どう見ても私より良い人はいた。コネも無い私が採用されたのは、たまたま担当者と相性が良かったのか? そうだとしてもこれは私の努力や才能とは関係はない、もうこれは運としか言いようがない。
この結果で私の方が優れていた、落ちた人は努力の足りない劣った人間だ、などと思うような人は、私とは理解しあえる人間ではないのだろう。
長男である私について、だいぶネガティブな話を書いた。もっと長かったのだが、書き終わって読み直して大分陰陰滅滅とした内容になったので、半分くらいカットした。こういう話はのどに詰まっている物を吐き出すような感覚で書いているところがある。書くとすっきりするが、書き終わったものを見ると気持ちが悪くなったりもする。
読む人が引くかと思ったが、そこそこ読まれてスキのマークも付いている。読む人の反応というのは、いつも良く分からないものだ。
昔のことを振り返ると色んな事があって、嫌なことの方が多い。とても人に晒せるような話ではないものもあるが、それは誰にも言わずに終わることになるだろう。
『スターシップと俳句』が結構人気。内容を全く紹介してないんだけど。あらすじくらいは書いておけばよかったと思っているが。まあ、いいか。
ちょっと珍しいというか、あまり話題にならないSFとかも取り上げていこうかとも思っている。
パソコンの話は、長くなったが、あれでも少なめにした方で、細かくどんなパソコンを使ってきたかを書くと、数倍長くなっただろう。連載するほどのものでもないので、パソコンについてはまた何かあったら書くこともあるかもしれない。
四半世紀以上前の話とか、今の人が読んで面白いのかと思ったが、意外と読まれているというか、割と人気だな。ちょっとびっくり。