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コンピュータ誌 追想

 私がパソコンやコンピュータ関連の雑誌を買うようになったのは、専門学校でコンピュータについて学び始めた1980年代の後半くらいからだっただろうか。8ビット機からパソコンに触れていたような同世代の人よりは大分遅いこととは思う。
 工学社の『I/O』は、専門学校にバックナンバーから揃っていたので学校で読んでいた。たしか、自分で初めて買ったのは、『月刊アスキー』だったと思う。記事の内容などもう覚えていないが、ギタリストのクロード・チアリの連載があったことと、加藤洋之&後藤啓介という二人組のイラストレーターの漫画だったか、そんなものがあったことは覚えている。
 『夜霧のしのび逢い』のヒット曲で知られているクロード・チアリは、ギタリストになる前は、コンピュータプログラマーだったそうだ。この雑誌の連載を読んで私は初めて知った。
 加藤洋之&後藤啓介は、リリカルな画風のイラストレーターで、『SFマガジン』にも連載を持っていた。『ダーコーヴァ年代記』の表紙なども手掛けている。私は画集を何冊か持っているくらい結構好きだった。1999年に解散してからはもう見かけることも無くなってしまった。

 1990年代からは、『DOS/Vマガジン』を主に買っていた。創刊号から、2005年くらいまで、15年間くらいは買っていただろうか。PC/AT互換機の様々な情報を得るのに役に立っていた。この雑誌で読者からのパソコンの不具合に関する問い合わせのようなものにこたえるというコーナーだかがあったが、それの内容がかなり的確で、パソコン店ではこの雑誌の掲載内容を参考にした店もあったようだ。
 今よりも、パソコンのハードウェアの不具合というのは頻発していて、特にビデオカード(グラフィックボード)やサウンドカードと、LANカードなどの組み合わせは、メーカーによっては上手く動かないという、相性の問題がよく発生していた。こうした情報は、インターネットが一般的になる前は、パソコン通信か、雑誌の情報が頼りだった。秋葉原でも店や店員によっては知識にだいぶばらつきがあったので、店員と会話していて、自分よりも詳しくないな、と思うこともあったりした。

 Windows95がでるまでの、Windows3.1の時代は、Windows用ソフトというのもそうなくて、MS-DOSで動くものが殆どで、Windows自体MS-DOSにWindowシステムを拡張したようなものだった。そのため、複数のソフトウェアを同時に使用する、なんてことはあまり現実的でなく、二つくらいのソフトをタスクスイッチという方法で切り替えるくらいだった。
 もうだいぶ記憶も怪しくなっているが、MS-DOSでは扱えるメモリ領域にも制限があったし、ドライバなどをメモリ上に常駐させる領域も制限があった(コンベンショナルメモリとUMBの設定だったか)。それをconfigi.sys というシステムファイルと、autoexec.bat というバッチファイルで設定する、という面倒くさい方法が必要だった。
 使用するソフトウェア毎に、専用のconfigi.sys と autoexec.bat を入れたフロッピーディスクを用意したりとか、そんなこともしていた。とくに、DOS/V の場合は、ソフトウェアで日本語を扱うので、英語版のソフトを起動させたりするときに上手く動かなかったりして厄介だった。コマンドで英語と日本語を切り替えたりできたが、英語版のPCソフトを動かす場合は英語モードで再起動が必要な場合が多かった。
 MS-DOS や IBM の PC DOS だけでなく、8ビットパソコン時代に CP/M で名を馳せたデジタルリサーチからは、DR-DOS と言うものも出ていて、日本でも発売されていたが私は使用したことはない。
 こうした情報もパソコン誌上ではやり取りされていて、どういう順番でソフトウェアのドライバとかを起動させればいいか、なんてことがやり取りされていた。仕事としてそういうことを日常的にやっていたので、雑誌も貴重な情報源ではあった。

 1990年代は、各種OSが群雄割拠という時代で、Windows系だと、WindowsNTから2000へ、Windows95に98(Meなんてのも)、IBMはOS/2(Ver.3 の OS/2 Warp は、テレビCMもあった)、Unix系だと、Linux、FreeBSD とかも出てきていた。アップルだと、次期OSになるかもしれない、BeOS なんてものもあった。
 Windows95は、スティーブ・ジョブズがアップルを追い出されてから立ち上げたNeXTという企業が開発したUnixベースのOS、NeXTSTEPのユーザインタフェースに似ている、と話題になって、訴訟も起こされたりしていた記憶もある。NeXTSTEPのPC用、というのもあったが私は触ったことは無い。
 NeXT 自体はアップルが買収し、NeXTSTEPはスティーブ・ジョブズと一緒にアップルに渡って次期OSの元になる。
 OS/2 は、IBMがPC/AT互換機での動作は正式にサポートしなかったり、DOSとの互換性はWindowsNTやWindows95よりも良かったが、共同開発者のマイクロソフトがOS/2からは手を引き、DOS用のソフトを切り捨てにかかったので利点もなくなり、パソコン用OSとしては広まることなく終わった。
 Unix系では、Linux が雑誌などで話題になったが、FreeBSD 等の他のUnix系パソコン用OSは、こんなものもあります、程度の扱いで、私のように仕事でUnix を使っていた人以外にはあまり注目もされていなかったように思う。
 私は、FreeBSDをインストールし、X-Window なども設定して、GNUのC言語などでプログラムを作ったりしていた。パソコン起動時にWindowsと切り替えができるようにしていた。
 アップルのパソコンは殆ど仕事でも触ったことは無かったが、1990年代には、アップルも互換機戦略に一時舵を切ったときがあって、パイオニアからマッキントッシュ互換機などが発売されていたこともある。
 BeOSは結局アップルには採用されず、アップルに舞い戻ったスティーブ・ジョブズも互換機路線は取らなかったので、マッキントッシュ互換機は時代の仇花で終わった。

 『DOS/Vマガジン』では、パソコン情報以外では、いのうえさきこ、という漫画家の連載も面白くてよく読んでいた。たしか、この人のコミックも何冊か部屋のどこかにあるはずだ。
 『DOS/Vマガジン』は、DOSがもう過去のものになってからもしばらくは購入していたが、さすがにインターネットで素早く情報が得られるようになってからは、次第に雑誌も薄くなっていき、惰性で買っているようなところもあって、廃刊になる数年前には購読を止めた。

 そのほかの雑誌では、『THE COMPUTER』という、ソフトバンクから出ていた雑誌も読んでいた。これはアメリカの何かの雑誌と提携していて、アメリカのパソコンとかコンピュータ情報を多く取り扱っていて、日本で話題になる前の情報なども載っていて面白かったが、どちらかというと経済紙的な内容が多かった。田原総一朗が連載だか、記事を書いていたはず。
 アメリカの雑誌としては、1990年代に当時勤めていた会社に、『日経バイト』があって、SF作家ジェリー・パーネルのコラムとかはよく読んでいた。

 だいたいどの雑誌も読むだけだったが、ハガキを送った雑誌もある。『PC WAVE』というマニアックなパソコン雑誌は、ちょっとアングラな雰囲気もあり、掲載された記事の内容も、いまだとちょっと物議を醸しそうなものが無くは無い雑誌だった。
 小型のパソコン、IBMの『Palm Top PC 110』(ウルトラマンをCMに起用したので、『ウルトラマンPC』と呼ばれた)の詳しい情報や、それをかなりマニアックに使い倒す人の紹介記事とかもあった。
 また、ライオス・システムという、日本IBMとリコーの共同出資によるコンピュータメーカーが開発した、『チャンドラ』『チャンドラ2(Thinkpad235)』とか、そういうちょっと、マニア受けするようなパソコン情報が満載という雑誌だった。ノリもどこか、2ちゃんねる的なところがあったように思う。
 この雑誌では、そうしたマニアな人たちをPC廃人とか呼んでいて、雑誌に掲載された際には、景品として、〇の中に廃の字が入った、〇廃シールなるものが送られてきた。廃棄物に貼るシールのパロディだ。

〇廃シール

 この間部屋の本の片付けをしたので、その中から見つけ出した。このエッセイを書く気になったのも、これを見つけたことが大きい。
 この雑誌は、出版元(ラッセル社出版)が倒産したので、二十一世紀を迎えることなく廃刊になった。

 今ではそうした雑誌もネット上で見るものになったし、文字情報に限らず動画サイトで動画で情報を得ることも多い。
 雑誌の中では、パソコンなどのコンピュータ誌がインターネットの影響をもろに受けていち早く紙媒体が消えていったジャンルなのではないだろうか。
 二十世紀末から二十一世紀初頭は、混沌としていて、パソコンは仕事と趣味が両立していたような時代でもあった。私はそれからERP(統合基幹業務システム)の方に仕事が移ったので、直にパソコンやOSの設定を仕事にするようなことは無くなった。その方面のことには以前よりは疎くなっている。
 ERPが主な仕事になったのは、会社などを辞めたりした環境の変化と、単純に収入がそちらの方が良かったということもある。ただ、収入は増えた分、面白味は無くなった。
 今では、パソコンに詳しいと知られると、OSのインストールなどを頼まれたりという、雑用をさせられたりするくらいか。2,30台のパソコンに、日がな一日インストール作業ばかりする、なんてこともあった。

 往年の『月刊アスキー』『DOS/Vマガジン』は分厚くて重く、部屋にたまると場所を取って困ったものだったが、それだけ情報の詰まった(広告も多かったが)雑誌で読みごたえはあった。記事は隅から隅まで読んだし、広告も情報の一部と言っていいものだったように思う。もうそんなことはこの先来ることも無いだろう。


 年寄りの昔話をここまで読んでいただきありがとうございました。

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