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幸せとは何か

 幸せについて考えているとき、意識体験に立ち上がっているのは、単なる欲望の充足や不足ではない。そこには、〈私〉の生に対する納得や期待や幻滅があるのだ。言い換えれば、幸せって何だろう、とつい考えてしまうとき、私たちは、後戻りのできない一回限りの生において、どのような欲望を大切にしていきたいのか、ということをも考えているのである。つまり、幸せを感受したり、予感したり、懐かしんだりすることで、〈私〉は自らの欲望や生の状態を見つめ直している、ということだ。こうやって生きていてよいのだろうか、と、そう自分に問いかけているのである。

岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』138・139頁

[1]今の生き方
 幸せを言い換えるならば「今の自分の生き方に納得できている状態」なんだろうなと思う。「今の」という部分が大事で、過去を積み重ねてきた自分の現在地、今に至るまでのあらゆる選択、それは努力や怠惰、誠実や裏切り、センスや他者の介在を含んだすべての選択の結果、今の自分がどういう状態にあるのか、そしてそれに納得できているのか、総じてまとめて幸せの基準になる気がしている。
 極端に考えれば、周りの人がどんな視線や言葉を投げかけたとしても、自分に納得できていれば幸せということになる。それはホームレスであっても可能なことだし、逆に億万長者でも、自分の犯した多くの裏切りや不誠実に苛まれ続けて不幸になることだってできてしまう。
 やはり、お金や権力は絶対的な幸せの尺度ではない。自分の人生に対する納得感を得るための条件は、人によって違うし、客観的に定められることでもない。不幸と思えば不幸だし、幸せと思えば幸せだ。全ては主観的な自分への納得感、それだけが尺度として機能しているにすぎないと思う。

[2]水のように馴染む人
 信号待ちの交差点でたまたま居合わせた知らない人たち。サラリーマン、自転車に跨った女性、ボストンバッグを肩にかけた学生。靴がボロボロだったり、痩せていたり、視線をキョロキョロしたりしている。皆が皆、これまで生きていた中で自然と身につけてきた作法で信号待ちをしていた。
 みんな、必死に生きている。波長が合うと感じる人は、この所作が自分にとって心地良い人だったりする。自分自身と水のように馴染む人は少ない。ほとんどの人はどこかに、なにかの違和感がある。
 「なんでこんな言い方するんだろう」とか「もう少し人のことを考えたら良いのに」というわざわざ直接いう必要もないけれど、どうしても少し引っ掛かる程度の感覚は、どれだけ時間をかけても解決することがない。そうやって、人は水のように馴染む誰かを無意識に探し続けている。そういった人と出会える運もまた、幸せの要素なのかもしれない。

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