傲慢とはなにか
[1]傲慢が歩いている
不満があるなら自分で声を出して、行動しなけりゃ変わらない。そんなことはあまりに分かりきっているし、当たり前だと思って人生を過ごしていたのだけど、案外周りはそうでなかったりする。
普段は不満を隠しているくせに、きっかけさえあれば風船に針を突くように不満を垂れ流す。垂れ流すのなら行動に移せばいいのに、そんなこともせず誰かが解決してくれたらいいとふんぞり返ったり、できないと言い訳を並べたりする。
それを傲慢と呼ばずに何を傲慢と呼べばいいのだろうか。老いも若いも体を傲慢でパンパンにして会社を、街を、社会を闊歩している。自分でなんとかすればいいのに、誰かになんとかしてほしいらしい。
僕は、ずっとそんな傲慢が爆発しないように処理しているだけだ。ただただ傲慢を処理している。雛鳥がいつまでも餌を持ってきてもらうのを待っているように、もう十分成鳥なのに、いつまでも雛のふりをして責任を逃れている。半ば呆れているところもある。
[2]傲慢の終着点
傲慢の終着点は、孤独だと思う。不満を撒き散らすくせに誰かになんとかしてほしい人には、優しくない人から順に離れていく。そして孤独になっていることも気づかずに、いつまでも傲慢を披露しつづける。
残念ながら社会の多くの人は、傲慢の終着点にもうすでに辿り着いている。孤独は傲慢を加速させる。不満がある、誰かに撒き散らす、自分は何もしない、人が離れる、不満が解決しない、また誰かになんとかしてほしいと思う、気がついたら誰もいない。
自ら掴んだ孤独に、また傲慢を重ねて孤独を深めている。そんな悲しい人たちにならないために、自らの手で人生を開くしかないと、仕事のデスクで傲慢なメールになるべく感情的にならないように注意して返信を入力する僕だった。