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平穏の為の犠牲
[1]耐えられない
誰かに責任を押し付けて手に入れた平穏は本当に素晴らしいものなのか。派手に耳目を集めて批判をくらったり、失敗したり、これみよがしに成功を見せびらかす人よりも、「静かに誰かに責任を押し付けて平穏を獲得している人」に恐怖する毎日を過ごしている。
平たくいえば「どうせ誰かがやってくれるだろう」「私は面倒だからやりたくない」という言葉に終着するのだけど、そうやって静かに責任を押し付けて得られた独善的な平穏の裏では、誰かがもう二度と帰ってこない時間を費やしてあなたのやりたくないなにかをやっている。
そうやって責任から逃れ続けている人の人生の伸びしろは、大抵どこか早い段階で頭打ちをしてしまう。結局、責任から逃れ続けると人生の可能性は次第に閉じていってしまう。そして気がつけばもうどうにも動けなくなって、逆に平穏に閉じ込められてしまう。そういう人生で良いのなら結構なのだけど、人に何かを押し付け続けて得られる一時の平穏ほど、未来を閉じる行為はないと思う。
[2]答えを誰かに出させる
しかしながら驚くほどに、責任から逃げ続ける人は多い。ほとんどの人は、誰かに面倒ごとを押し付けて時が過ぎるのを逃げながら待っている。
仕事ではそれが顕著になる。「絶対に自分では答えを出さない人」が相当数いる。答えを出すという行為は責任を生む。もし出した答えが間違っていた時は、その答えを出した人が責任を取らなければならない。それを極端に嫌がり、絶対に自分で答えを出さず、誰かの口から答えと、間違っていた時の責任を持たせて、自分は平然と定時で帰るのだ。
僕は毎日毎日、あらゆる責任逃れの言動に吐き気を覚えながら、できるだけ誰も取りたくない責任の受け皿になっている。でもきっと、世の中の多くは責任を持ちたくない人で構成されている。それは自分の周りと、分かる限りの世界を照らし合わせれば自ずとそう見えてくる。
今日もそうやって、押し付けあった責任を引き取って、一時の平穏を享受する人達の未来を憂うのであった。