時間の「深さ」を考える
[1]時間の深さ
時間の「深さ」みたいなものの良さを忘れてしまっている気がする。「無駄を愛せよ」というわけではないのだけど、タイムパフォーマンスが過度に重視されると、物事の深いところにある「エグみ」みたいなものを感じることができないまま、経験を積んだ気になってしまうように感じている。かといってどこぞやの寿司職人のように、十年間親方の手を見て覚えろというわけでもない。全てはきっとバランス。そう、バランス。
夏目漱石のいう「皮層上滑りの開花」の行き着く先は、経験した気になった人達の傲慢が溢れる社会なんだよな、とつくづく思ったりする。技術だけを享受して、人の気持ちを考えることをしない、自分の不幸は他人のせい、自分だけが得をすればよい、それもなるべくはやく、すぐに瞬間的においしい思いができればそれでいい、みたいなものや人が溢れている。街を歩くのが辛い。
そんなことを繰り返している人はいつまで経っても本質的に暮らしは好転せず、苦しい苦しい、成功している奴が疎ましい、足を引っ張ってやろうとか、自分の暮らしだけは少しでも成功しているように見せようとか、見栄を張ったりする。だからSNSは四六時中地獄が溢れている。
[2]いつまで楽しいのだろうか
どうせ人間なんてちっぽけな存在なのだから、目一杯楽しむけどあっという間に人生は終わる。面白いからいつまでも生きたい、200歳でも7,000歳でも生きたい気持ちはあるのだけど、どうせどこかそこそこにして死んでしまう。そんなことは分かっている。毎年更新されるドラえもんの映画は、いつまで観ることができるのだろう。
母が亡くなり卒なく戸籍が整理され、骨を納め、もうすぐ半年が経とうというのに僕の頭の中はいつまでも母でいっぱいになっている。しかし本当に何事もなかったかのように日常は流れている。人間は記憶に跡を残しながら、物理的には跡形もなく消えてしまう。
東京でのライブが終わり、仙台へ夜走りで向かう道中、ついさっきまで皆でどれだけ楽しい時間を過ごしていても、泊まった個室で一人になり一息つくと脳裏に母がよぎってしまう。「なんで、なんで死んじゃったんやろう」
母と過ごした時間の「深さ」故に、心の奥までしっかり刺さった母の存在を思いながら、結局は体の疲れが優って眠ってしまったのだった。