見出し画像

180光日の孤独

[1]本当に寂しい
 4月5日に母が亡くなってから毎日、本当に毎日、母のことを考えては目が潤んでしまう。仕事中だって、ライブ後の高揚感の最中だって、一瞬の隙があれば母のことを考えている。そして何度も何度も、母のことを文章にしたためてしまう。
 平気で何年も会わない時期があったり、連絡も頻繁には取らなかったし、ベタベタに仲が良かったとは言えないのだけれど、僕は孤独ではなかった。母子家庭でどれだけ貧乏でも、仕事で母がずっと家に居なくとも、どれだけ破天荒でも、僕にとって母は母だった。孤独ではなかった。それだけは間違いなかった。
 母の亡くなった今、果てのない孤独を感じている。どれだけ楽しくても孤独が付き纏い、ずっと、ずっと埋まらない。お酒をいくら飲んでも、その孤独だけは埋まらない。
 無条件で心を抱きしめてくれる人が居ることが、どれだけ幸せだったのだろう。寂しさから以前と比べて加速度的に予定を入れたり、やりたいことを探したり、仕事を頑張ってみたり、誰かと話したり、なるべく毎日体を疲れさせて、孤独に気づく前に睡眠まで辿り着くようにしている。


[2]幸せの代償
 深まる孤独から発生する感情や虚しさの前では、お金や権力は余りにも無力で、なんの埋め合わせにもならない。お金、権力、見栄に囚われた多くの人とは距離を置かなければならない。厭世的ではないのだけれど、元々興味のなかった社会的な成功はより興味がなくなってしまった。
 幸せはそういった「誰かと比べたとき」に発生する相対的なものではなく、「自分がどうありたいか」という心の持ちようだということらしい。気の慰めに読んだ本にそう書いてあった。どうやら母が亡くなって、僕は幸せの輪郭がすっきり見えてきたようだった。幸せが見えてくる代わりに何かを失わなければならないというのは余りにも皮肉的だけれども。
 身の回りの多くの人は、できない理由を探す天才だったり、文句を口にして自分では行動しない能力に長けた人だったりする。そういう人もまた、誰かと比べたときに自分は頑張っているのに何故とか、常々誰かと比べた幸せを追い求めているのだろう。幸せはそんなところにはない。誰かと比べるのならば、僕は母も父も居ない孤独を抱えて不幸だと言い張って良いことになる。残念ながら真逆で、僕は幸せだ。母のことを思うと毎日目は潤むけれど、心の中は以前よりも相当すっきりしていた。

いいなと思ったら応援しよう!