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大人になるということ

[1]子どものように遊ぶ権利
 「大人になる」ということは「子どもの頃を忘れる」のではなく、「いつまでも子どものように遊ぶ権利を得る」ことなのかもしれない。それは子どもと等しく無責任であれというわけではない。責任を回避せず少年少女のような感性で生きることができたら、それはきっと本当に素敵な大人だと思う。
 大人になるにつれ社会性を身につけ始めると、嘘や見栄や遠慮という名前の逃げが視界にちらついては、気がつけば武器のように身に纏い暮らしてしまう。
 そういったものを極力排除した状態で日々を過ごすようにしているものの、心に水のように入ってくる幾つもの嘘や見栄が毎日怖くて、布団に入ると毎晩「今日のこの自分の発言や態度は大丈夫だったのだろうか」と、良くない大人の身のかわし方をしていなかったのだろうかと、脳裏を掠めて少しだけ眠れなかったりする。
 「いつまでも子どものように遊ぶ権利を得る」ためには表裏の関係で、「嘘や見栄や逃げる嫌な大人にならない」という実態が伴わないといけない。

[2]目線を低くして感じる
 とあるポッドキャストラジオを聞いていると「子どもの頃に還ろうと思って田舎に行ってみた。そしてとにかく目線を低くして生活してみると、なんと子どもに戻れた。」という話が流れてきた。
 子どもが子どもたる理由は目線が低いこと、らしい。目線が低いことで草や土の匂いが近くなるし、ガードレールに付いたキズだって真正面から見えるし、サドルを限界まで下げた自転車を漕いでホームセンターに向かう道中の景色を眺めてみると、世界の広がり方が子どもの頃に戻った、という話で気づけばおもしろおかしく聞いていた。
 大人に近づき身長が高くなるにつれ草の匂いは遠くなったし、自転車のサドルは高くなって五感を感じる器官は地面から距離を置くようになってしまった。背が伸びて相対的に世界は縮んだし、醜い人間同士の争いも視界に入るようになってしまった。
 それを「大人になる」と表現するのであれば、身長の伸びた僕は子どもに戻ることはできない。子どもに戻ることができないのであれば、せめて「いつまでも子どものように遊ぶ権利」くらいは確かに心に携えたまま、きゃっきゃっと無邪気に童心で遊べる心の通じた人達を大切にして生きていきたい。

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