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好きを繋ぎ止めてはいけない

 だから、絶対的な「好き」なんてほぼあり得ないもの。そして「好き」が揺らいだとしても、それを嘆く必要はまったくありません。だって当たり前だから。むしろ揺らがない「好き」なんて、盲目的な執着であって、本当の意味で「好き」なわけじゃないのかもしれません。
 「好き」は、一時的な儚い感情である。そんな前提を内包しているんですね。それは悲しいことでもなんでもなくて、そういうものなんです。

三宅香帆『「好き」を言語化する技術』59頁

[1]「好き」と「楽しい」
 バンドをやっていると、つい誰かの「好き」を集めることに終始してしまう時がある。いや、そういう部分は常に付き纏っているのだけど、誰かの「好き」を繋ぎ止めるような過剰な行為や言葉はかけてはいけない、というスタンスで居ないと自分を見失ってしまいそうになる。
 「音楽が楽しい」から「好き」なのであって、「好き」だから「音楽が楽しい」なのではない。この順序はとても自分の中で重要で、「楽しい」と「好き」は幾らか領域が被っているとしても倒錯してはいけないと、事あるごとに自戒している。
 「好き」は一時的な儚い感情であるという前提を受け入れられず、眼前の「好き」を追い求めて失敗してきたバンドを今まで沢山見てきたし、これからも沢山見そうな気がしている。「好き」を強要したり、拘束したりすると、しっかり破滅が待っている。
 バンドをしていると、「三年でお客さんが変わる」という言葉をよく聞く。その一部は「好き」に内包されている本質的な刹那性から生まれる事象なのかなとも思うし、バンド側の魅せ方の至らなさからくる部分も大いにあるとも思う。恐らくどっちも、だとは思う。
 僕は「楽しい」を譲らず追い求めて、なかなか強靭に長くバンドをやりたいなと今のところは考えている。

[2]流れていく
 今年になって死生観が大きく変わってしまった。4月からずっと足下が揺らいでいる毎日を過ごしている。生きている意味を自分で見つけたり、見つけなかったり、無いと結論づけたり、ともかくなにか「生」に対して自分なりに判断することで足下がかっちり固まるのに、判断することすらできなくなって、そのすべてを失ってしまった。
 虚空を漂っているような毎日で、かつて「成し遂げたいもの」があったはずなのに、「どうせ死んじゃうから頑張りたくない」というわけでもなく「成し遂げたとしてもなんか虚しい、というか、成し遂げなくても虚しい、というか、人間という生き物であることが虚しい」という気持ちに覆われている。
 だからといって死にたいわけでも全くなく、むしろ日常は満たされているから余計にバランスが悪くなっている。やりたいことがあるはずなのに、虚しさで足に力が入らない。そしてそれも言い訳のような気がしてなんとかもぞもぞと頑張っているのだけれど、少し空回りするような日々が続いている。いずれ何かしら自分なりの答えが見つかれば良いのだけれど。
 だから余計に、「好き」を強要してモノやヒトを繋ぎ止めてはいけないなと思う。それは誰かに虚空を掴ませるような行為だから。空気の鎖に誰かを繋ぎ止めておくような愚かな真似事は辞めよう。そう思いながら、少しもがいて、斜めに世の中を見ていた。

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