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盲金魚ー金魚鉢

先に上げた、盲金魚ー水泡眼、ー和金、を見ていただいた方が分かりやすいです。
※暴力描写、障害者、体の不自由な方、性風俗に携わる方に対して差別と取られるような描写がございます。
そのような描写に対して、気分を悪くされる方は、ご注意くださるか、閲覧を御遠慮ください。
また、こちらの作品は上記のような主張をするために書いたわけではなく、劇中の時代(明治〜大正をイメージした日本。現実的な考証の元で書かれたものではありません)なら考えられるであろう事や、登場人物の過去の経緯を内容としたものです。




ー黒出目金。

私(わたくし)は、どういう因果か、今世は盲目の体にとなり、見世物小屋へと身を堕としました。
見世が始まる前の口上によれば、前世の私は、罪のない人の目玉を、ほじくり出す事に悦びを覚え、千人の目玉を喰らう事で、不老不死になろうとした罪人であった、というのです。
もしそうなら、これ程理不尽な事も御座いません。
前世と魂で繋がっていようと、体も人格も違うのならば、全くの別人であろうと思われます。
見知らぬ人の罪を被り、その濡れ衣で光を閉ざされた罰を受けるのなら、全くこの世は可笑しなもので御座います。
私は、特に芸もなく、ただ佇んでいる石のようなものだったのですが、それでも猿かなにかを見るようなかんじで、面白がってこっちに果物や他の生ものを投げつけている人もいました。一番酷いのは、古くなった生卵でした。べったりと髪や顔に張りついて、洗っても洗っても、髪に着いた臭いや、服の染みが取れませんでした。服と言っても、襤褸同然のものしか着れませんでしたが。
あんまり長い時間、水を使っていると、他の人達に怒られますので、直ぐに済まさなければならないのですが、強い力で何回も服を洗っていますと、いつの間にか摩耗して、着れないほどの穴が開きます。
新しく着るものが欲しいと言うと、有無を言わずに殴られたので、襤褸布を襤褸きれで繕うしかありませんでした。
しかし、私は全くもって目が見えません。
初めの頃は、必ず指を刺して、服に血の跡を付けていました。
ようやく手の感覚だけで、綺麗に縫えるようになったのは、たしか十七の頃でございました。
観客が見ている前で、ヘマをやらかすと、手酷い折檻が待っていました。
鞭で身体中血が出るほど打たれ、その日の食べ物も出されることはありませんでした。
私の人生には、希望など全くありませんでした。
ある日、いつもの様に座長が私の所までやって来ました。
私は、最初、また何かを知らずにやらかして、その失敗を怒られると思ったのですが、座長は、にんまりとした声で、言ったのです。
「お前を買いたいという方が現れた」
その時は、座長のご機嫌がすこぶるいい時の証である、口髭を撫でる音も聞こえてきました。
私は、目が見えない割に、常人よりは耳の聞こえがいいのです。
私は、どうせ私などを買いたいなどと、碌でもない趣味の金持ちであろう、と思いました。
ですが、実際に会った方は、とてもお優しい男性でした。
襤褸きれを纏っただけの姿の私を、ご自分の屋敷に上げて、風呂にも入れてくれ、身綺麗にしてくれました。
着るものも、市井の人々よりも、上等な外国製の着物を与えてくれました。
手で触るだけで、ボタンの位置や、結ぶ場所が分かり、私でも何回か練習すれば、一人で綺麗に着れるようになりました。そんな、親切が詰まった服でした。
旦那様は、清潔な寝床も、暖かい食事も、私に下さいました。私は、もうこれ以上を望むのは、罰当たりな事だと分かっていましたが、一つだけ惜しまれるものがありました。
それは、私の着ているものが、触るだけで刺繍や鰭飾りが着いた豪華な服である、と分かることです。旦那様も綺麗だね、と、たとえ優しさから言ったとしても、少なくとも褒めてくれる服は、とても美しいでしょうから、それを私が見れないのは、しょうがないとは分かっていますが、少し勿体ない気がします。
ですが、ある日、旦那様は私を呼んで、こうおっしゃいました。
「知人に、頼んでいたものが、ようやく出来上がったんだ」
そういう旦那様の声と一緒に、小箱が開くような音が致しました。
「さぁ、手を出して、これを嵌めてみるから」
言われるまま、私は、旦那様に手を取られて、それぞれの手の薬指に、輪っかのようなものが通される感触がするのが、分かりました。
その、指に通るほど小さい輪っかが、薬指の第三関節まで到達すると、旦那様は、通したものを瞼の上に来るように、上げなさいと言われたので、私はその通りにしました。
すると、不思議な事に、頭の中に何かの映像が、映し出されました。
私の目の前に、端正な顔立ちの男性が、座っていました。その男性は、旦那様の声で喋りだしました。
「これで、君が嵌めている指輪と、脳が繋がった」
私は、それでやっと頭の中に見える男性が、旦那様であり、映像の風景は、今いる部屋である事が分かりました。
私は、旦那様が私の指に通したものは、なんだろうと思って自分の中指を確認しました。
それは、金の輪の上に、人形に嵌めるような大きさの義眼が乗った、指輪でした。
人から見れば、不気味だと思われるでしょうが、私は、陶器の光沢の下に、血管まで描いてある精巧な目玉を見て、とても美しいと、思いました。
けれども、頭の中にいきなり、沢山の色と光が容赦なく入って来る感覚に、私は慣れずに、頭痛がしてしまいました。
「その指輪を嵌めていれば、目が見えなくとも、頭の中に周りの様子が映し出される。人間は、目で物を見ていると思っている人が殆どだが、実際は脳で物を見ているんだよ。目玉は、物体を映し出すためのただの廉子(レンズ)のようなものだ」
私は、どう答えたらいいのか分からずに黙っていました。
「それはもう、君の物だ。君の、眼だ。」
私は、旦那様に向かって、深々とお辞儀をし、心からのお礼を言おうとしましたが、
「君からすれば、巫山戯るなと思うだろうが、見えない方が幸せな時もある」
私は、頭を上げて、旦那様を見つめました。
「もし、その新しい眼を使いたいのなら、少しずつ慣らしていったほうが良い。生まれたばかりの赤子でさえ、外の世界の光に驚いて、泣いてしまうのだから。頭痛がしたのは、生まれた頃から、暗い洞窟の中で過ごしてきて、光を知らない人間が、やっと外の広い世界に通じる出口を見つけて這い出てきて、その光で、目が眩んでいるようなものだ。」
「元々見える人間でさえ、目を塞ぎたくなる光景が、この世界には無数にある。もし君がそういうものに出くわしたら、その眼を塞いでも良いんだよ」
私は、旦那様に対して、心からただ頭を下げることしか出来ませんでした。
それで、私は目玉と、新しい名前である「黒出目」を賜り、 そして、誓ったのです。
この人の為なら、私はどんなに悲惨で、惨いものであろうとも、目をそらさずに、こちらから睨みつけてやろう、と。
だから、私はどんなに酷い目にあった子が、旦那様に連れられてやって来ても、どの子も全て真正面から、向き合いました。可哀想などと思うことは、侮辱も甚だしいと。
そして、何も罪を犯していない子に対して、あまりにも辛く当たる世界に、私は、静かな怒りを感じていました。もしくは、自分も辛い境遇から、逃げてきた身で、ただの同情を、その子達に被せているだけなのかもしれません。

義眼の指輪で物が見えるようになって、本来、視界である映像になれるようになってから、旦那様は私に読み書きを教えてくれるようになりました。
そしてある日、たくさんの色が載ってある見本帳のようなものを持ってきて、私に色の名前を教えてくれました。
私は、その本に載っているひとつの色が気になって、旦那様にこれはなんという名前ですか、と聞きました。旦那様は、
「これは、黒という色だ」
と教えてくれました。
その色は、夜の真中の色であり、旦那様から賜ったドレスの色と、義眼の瞳の色と、同じでした。
私は、どこかこの色に、心地よい静けさのようなものを感じ取りました。
「この色を着こなす女性は、とても美しく見える人なんだ。だからこそ、君にこの色の服を来て欲しいと思ったのさ」
私は、頬が熱くなる感覚が分かりました。
旦那様は、私の頬に手を当てながら、
「これは、『 赤くなった』というんだ」
と言いました。

ー土佐錦。
あたしは、廓(くるわや)で何人もの旦那を抱えた、大人気の遊女だった。
どの金づる男も、口々にあたしの容姿を褒めそやし、床上手とも言った。
みんなどこかの御曹司だったから、金払いはかなり良かった。
けれども、話している中で、あたしと誰かの世界は、全く違うのだ、という事が嫌でもわかった。
赤ん坊のあたしは、廓の近くで、布に包まれたまま捨てられていた。
そこを誰かに拾われて、廓で禿(かむろ)の真似事をしながら生きていた。
姐貴分の遊女に、膳を運んでいた時、転んで中身を全てぶちまけてしまった。
姐さんは、黙ったまま、厚い煙管の灰をあたしの掌に押し付けた。酷い火傷が出来たそこは、水膨れになった皮膚が治ってからも、濃い跡が残り、もう一生白粉で隠さないと、人目に見られなくなってしまった。他にも、寒い時期には風呂場で延々と水をかけられたり、呼ばれて来るのが、数分遅れただけで、一晩中、柱に括りつけられた事もあった。
けれども、客である男達の幼少期は、あたしから見れば信じられないほど幸せで、満ち足りたものだった。
母親の干渉が五月蝿かったなどや、俺は、兄弟が多かったから、思う存分甘えられる一人っ子が羨ましかった、などと。
遊女に身を墜とす奴なんて、どんな人生を歩んできたかなんて、たかが知れてる。
けれども、酒に酔った男は、そんな事情をはかりもせず、全員当たり前のような顔をしながら、あたしがどんなに頑張っても手に入らない幸せの上に、無自覚に胡座をかいて、文句を言っている。
あたしは、そんな話に耳を傾けなければならない苦痛を、そんな男達から金を巻き上げているという思いに酔う事で、なんとか堪えていた。
そして、ある日、俺が頑張って金を払えるようにするから、いつかここを出よう。と約束してくれた男が現れた。
今思うと、その時のあたしは、純情ではなく馬鹿だった。外界はどんな所だろう、この苦界からぬけだして、そこへ一生住んでみたい、という思いばかりが膨らんで、そんな男の言葉を本気にしていたのだ。
本気にしたあたしが、馬鹿だった。
その男も、初めの方はよく、あたしの所へ通ってくれたが、数ヶ月もすると、めっきり姿を表さなくなった。
それでもあたしは、辛抱強く、あの人が来ることを待っていた。
1年半くらい経って、ようやく店の前で、あの人の顔を見かけた。あたしは、あたしを捉えている牢屋のような、郭の朱色の柱の間から、もう辛抱たまらずに声をかけた。
けれど、男はあたしの声を無視して、通り過ぎて行った。それに隣には、見知らぬ女が連れ添っていた。
その女は、遊女のようにけばけばしく着飾っていない。普通の格好の女だった。
二人は、いかにも物見遊山のような態度で、練り歩いていた。女が、遊女の方を汚らわしい商売女とでも言うような目付きで、見ていると、男は、あれは前世の因果から、浮世で地獄に落ちるような罪人なのだ、と喋っていた声が聞こえた。
誰も、好きでこんな商売に身を墜としているんじゃない。
むしろ、こんな事でも、社会に奉仕している事に変わりはない、と己の仕事に誇りを持っている遊女もいた。
もしかしたら、本気でそう思っているわけじゃなく、そう思わないと、この辛い仕事が耐えられないからだったかもしれない。
あたしは、そこまでお偉い事を考えてはいなかったが、それでも何も知らない奴に、平然と暮らしていける身分のくせに、のうのうと幸せになれる奴に、ここまで言われる筋合いは無かった。
あたしは、もう全てがどうでも良くなって、郭をぐるりと取り囲む、逃亡した遊女を逃がさない為の掘、御歯黒溝に、飛び込んでしまおうと思った。
溝は、墨のように真っ黒な色をしていた。
きっとひとたび飛び込めば、ぬかるんだ泥に足を取られて、もう二度と土を踏むことは叶わないだろう。それでも良かった。あたしは、もうこの世界にうんざりしていたのだから。
あたしは、こらから死ぬというのに、むしろどこか清々して、落ち着いた心地で、履物を脱いだ。
その時に、男が通り掛かった。
男は、あたしのほうをじっと見ている。
「なんだい、死ぬ遊女がそこまで珍しいのかい」
あたしが肩をいからせて叫んでも、男の方は微塵も動かず、何も発さなかった。
「見世物じゃないんだよ!なんで、死ぬ時まで嘲笑われなきゃ、ならないんだ!」
あたしは、何だか情けなくなって、死ぬ勇気もなく、踏ん切りもつかず、その場で幼子のように泣き出してしまった。男は、何も言わずに、あたしの傍に近寄って、肩に手を乗せてくれた。
何だかその様子が、あたしの気持ちを全て、受け止めて、くれているような気がした。
さんざん泣きわめいて、叫んだ後で、騒ぎを聞きつけた郭の雑役夫達や遊女がやって来た。
男は、その集団の方へ声をかけた。
「この人の、元締めの方はどなたですか。私は、この人の身請けをしたいのですが」
私は驚いて、泣き腫らした顔を上げた。
「ふん、可哀想な遊女を身請けして、それでご満足かい。金持ちの坊ちゃん」
あたしは、死のうと思った事に比べたら、もう全部なんでもないような気がした。そのまま、なげやりな口調で、その男に嫌味を言った。
「貴方は、私のものになる必要はありません。私は、貴方が出ていくのに必要な金額を出す。それだけです」
冷静に、しかし平然に言い放った男に、ざわざわとしていた周囲は、しぃんと静まり返り、圧倒されたようだった。
やがて、あたしの郭の婆が出てきて、男と何かのやり取りをして、男は懐から金を出した。
婆は、嫌らしい顔で金を受け取ると、あたしの方を向いて、さっさと出ていけ、と顎で示した。
男は、力なく座り込んだままのあたしに、手を差し伸べて、起こした。
「これで、貴方は自由です」
それから、あたしは旦那様の屋敷に送られた。
そこで、暫く衣食住の世話を受け、遊女のままの身では、受けられなかった教育もほどこされた。
この人は、本当にあたしを自由にしてくれた上に、その後も困らないように、先々の事を考えてくれていたのだ、と感じた。
あたしが、屋敷の生活に慣れた頃、旦那様は、何かの仕事を斡旋しようか、という話を持ちかけてきた。
あたしは、お気持ちは大変嬉しいのですが、貴方様について行きます、と答えた。
旦那様は、そうかと言って、何か考え込むように、手を口にやった。
暫くしてから、旦那様は口を開いて、
「では、お前は土佐錦という名前にしよう。新しく入ってくる子達の、世話や礼儀作法を教える立場を任せる」
と言った。
あたしは、新しい名前と仕事を受け取って、深々と頭を下げた。

ーらんちう。

アタイは、子供が大好きだった。
元々、沢山いる兄弟の、一番上に生まれて、何かと世話をしなければいけない立場だった事もあるだろうけど、元々の性根から、多分世話と子供が好きだったんだと思う。
たまには、手をつけられない悪戯や、喧嘩をする時もあるけれど、それでも兄弟を大事に思って、愛していた。
大人になってからも、それは変わらない。
だから、好きな人と一緒になれたら、その間に子供が授けられたら、とても嬉しいと思っていた。
向こう隣の、魚屋のかっちゃんに、告白された時は、それはもう、驚いた。
ちっちゃい頃から、アタイや他の女の子をからかって、遊んでいるような、ガキ大将だったけど、どこか憎めない所があって、それがみんな分かって、かっちゃんと、一緒になって遊んでいたんだと思う。
ある日、アタイが一等大事にしてた簪を、落として無くしてしまって、途方に暮れて泣いていたところを助けてくれたのも、かっちゃんだった。
かっちゃんは、みんなを呼んで事情を話し、アタイの簪を探してくれるように、頭を下げて、頼んだ。
みんなもかっちゃんも、根気よく探してくれたのだけれど、日が暗くなっても簪は、見つからなかった。
暗くなって探しても、危ないだけだ。みんなは、申し訳なさそうに、また明日探そうと言いながら、それぞれの家に帰って行った。
アタイは、もうその気持ちだけでも十分で、不注意に落としたアタイが悪いのだから、簪が見つからなくても、しょうがないと諦めがついていた。
けれども、かっちゃんだけは、一人でずっと探し続けていてくれたのだ。
その晩の、もうだいぶ遅い時間になって、戸を叩く音とあたいを呼ぶかっちゃんの声が聞こえて、出てみると、ぼろぼろになったかっちゃんがいた。
「これ、烏(からす)が持って行っちまってたみてぇだ」
かっちゃんによると、あたいが落としてしまった簪を、烏が巣まで運び去ってしまい、たまたまその近くを通り掛かったかっちゃんが、高いところに何かキラリと光るものを見つけて、もしやと思って、木の上まで登っていって、見つけたらしい。
通りで、いくら探しても見つからないわけだ。
アタイは、ぼろぼろになったかっちゃんに向かって、何度もお礼を言った。
恐らく、暗い中、木登りをしたせいもあるだろうけど、烏を驚かしてしまったせいで、つつかれて、こんなにぼろぼろに、傷だらけになってしまったのだ。
それに、今頃は烏の卵が孵る時期で、いつにも増して親鳥は神経質になっている。
かっちゃんは、照れくさそうに鼻の下を擦りながら、
「今度は、気いつけろよ」
とだけ短く言って、自分の家へと帰って行った。
普段のかっちゃんは、女の子にちょっかいを出すし、悪戯好きで、よく大人達に叱られている不良じみた子だったけど、本当はここまで優しい子なんだ、とアタイは、初めて知った。
それから、アタイは、かっちゃんに密かな思いを寄せるようになった。
けれども、小さい頃から自分はあまり器量がいい方じゃないと自覚していたし、食べることが好きで太っていたから、そんなアタイが告白するのは、なんだか、申し訳ない気がした。
だから、かっちゃんの方から、告白してきた時は、本当に心から嬉しかった。
あんなに優しい人に、ここまで思われていたなんて、しかも両思いであったなんて、考えるただけで、涙が出てくるほどだった。
祝言を上げて、初めて夫婦一緒に寝る時に、かっちゃんからこう聞かれた。
「お前、子供は欲しいかい」
アタイは、もちろん、と答えた。
かっちゃんも、嬉しそうに頷いた。
アタイは、もうこの幸せの中でなら、死んでもいいと思った。
けれども、そんな幸福な生活も、長くは続かなかった。
いくら頑張っても、あたいら夫婦に、子供が授からなかったのだ。
最初の方は、まあこういう事もあるだろう、とかっちゃんもあたいを慰めてくれたけれど、二年、三年と時間が経つ度に、かっちゃんのあたいを見る目は、冷たいものになっていった。
夜も、一緒過ごす事が減り、アタイが寝ている隙に、物音もなく、静かにどこかへ、出かけることが増えた。
アタイの不安は、増して行った。
そして、ある日こんな会話を耳にしてしまった。
「お前、あんな嫁さんといつまでも暮らしているんじゃない、子供一人も出来ない、女なんて」
かっちゃんの母親、あたいの義母さんの声が、障子を隔てた部屋の中から、聞こえた。
それに短く、「……あぁ。」と返事をしたかっちゃんの声も聞こえた。
あたいは、もう我慢ならなくなって、かっちゃんを問い詰めた。
あたいだって、頑張ってるんだ、それなのにあんな言い草は、ないだろうと。
かっちゃんは、面倒くさい顔をして、冷たく言い放った。
「盗み聞きするなんて、いい度胸をしてやがんな、そんな暇あるなら、子供ができるようになんとかしやがれ」
あたいの心は、バラバラに砕け散った。
どうやら、義母さんも、かっちゃんも、店の世継ぎの事を、考えていたらしい。
かっちゃんは、あたいとの間に、可愛い子供を持ちたい、と言うより、店をつぐ子を早く産んでくれないと、気が気でない様だった。
かっちゃんの父親は、早くに病気で亡くなっている。それを女手一つで、お母さんが育てた苦労は、計り知れない。
だからこそ、早く孫の顔を見たくて、あたいに期待していたんだと思う。
けれども、待っても待っても、生まれるどころか、授かる気配もない。
死ぬ前に、せめて孫の顔を見たい、という願いを叶えられないあたいは、義母さんからすれば、碌でもないない嫁に見えたんだろう。
でも、だからって。
あたいだって、頑張っているのに、子供が授かるかどうかなんて、あたいには、どうしようもない。
自分が幸せになるのに、あたいにその責任を押し付けないで欲しかった。あたいでどうこう出来るなら、もうとっくになんとかしているというのに。
けど、そう言ったところであたいは、二人からすれば、何も出来ないくせに、文句ばかり言う嫁に映るんだろう。
次第に、かっちゃんからも、義母さんからも、冷たく扱われた。
そして、ある日とうとう
「子供もできない女なんて、嫁に貰うんじゃなかった」
と、その一言で、あたいは追い出された。
途方に暮れて、あたいは、一人ぼっちで歩いている途中、流れている川を見た。
どうせ、実家に帰っても、嫁の責務も果たせなかった出戻り女だ、と近所で噂になって、家族を辛い立場に立たせてしまうだけだろう。
それならば、いっそ……。
朦朧としたまま、川の淵に座り込んで、動けなくなってしまった。水面には、やつれた目の、顎が分厚いあたいの顔が、映っていた。
そこに、男の人の声が聞こえた。
「どうしたんですか」
その人は、今から死にそうな顔の女が、川の淵に佇んでいるのに、変に心配した風でもなく、様子の変な人が、気にかかった、というような感じで、近づいてきた。
あたいは、もう全部どうでも良くなって、その人に、これまであったこと全部を、洗いざらい吐いてしまった。
そして、最後まで喋ったところで、自分が涙を流していることに気づいた。
泣くなんて、いつぶりだろう。
本当に小さい頃に、泣いた事はそれなりにあっただろうが、その後に兄弟がどんどん生まれてきて、その世話で、てんてこ舞いの毎日だった。
もしかしたら、自分でも気づかないうちに、自分の心を押し殺して、今まで生きていたのかもしれない。
それを、思うと自分は、なんて馬鹿で、勿体ない生き方をしてきたんだろうと、感じ、また泣いた。
男の人は、あたいがどんなに、子供みたいに大声を上げて泣いても、泣き止むまで傍に居てくれた。
そして、あたいに言った。
「一度死のうとした命、私に預けてみてはくれませんか」
あたいは、その人の言う通り、もう一回死んだような気持ちだったから、その人の差し出した手を取って、屋敷に連れられて行った。
そこで、あたいは、新しい人生を送る事にした。
旦那様に、「らんちう」という新しい名前と、仕事を貰った。
この屋敷には、旦那様から拾われてきた娘や、女がやって来る。
どの人も、辛い境遇からや、あたいみたいに死ぬ寸前のところを、旦那様に救われた人だ。
だから、あたいは暖かい心で、少しでも固く閉ざされた心を癒せるように、誠心誠意、世話をした。
どんな子供も、無条件に幸せなる権利があると、あたいは思う。
だから、例え自分は子供を持てなくても、ここにやってくる子達のお世話ができる事、母親のように愛を持って振る舞える事が、嬉しかった。
中には、少し手に負えない子もいるが、それだって、元々の気性なら、頭ごなしに怒ってもいい事は無いし、時間が解決してくれることもある。
旦那様が言うには、
「土佐錦の、子供達には真面目に礼儀作法を学んで欲しいと考える気持ちは、良いのですが、少々厳しすぎる時がある。本人の硬い雰囲気に、近寄りがたく感じる子も、いるようです。だから、らんちう、その分子供達をうんと褒めて、愛してあげてください。勿論、甘やかしすぎても、問題ですが」
という事らしい。
あたいと、土佐錦。二人合わせてちょうどいい、飴と鞭のようなものだろうか。
この前、秘蔵のおやつを和金と、玉真珠、新しく入った子である水泡眼に分け与えていたら、たまたま通りかかった土佐錦に、
「アンタ、菓子を与えるのは良いけど、虫歯にさせないように、しとくれ。アンタ達、飯の前に、食いすぎるんじゃないよ、成長期なんだから、しっかりご飯も食べるんだよ」
と注意され、和金は、ブーたれた顔をして、口を尖らせていた。玉真珠と、水泡眼は素直に、はい、と返事をしていた。
なんだかんだ、土佐錦は子供達のことを考えてくれている。あたいと接し方が違うだけなのだ。
「勿論、気をつけるよ。土佐錦、アンタも一つどうだい?」
「要らないよ、甘いものは、苦手でね」
ぴしゃりと言い放たれて、土佐錦はさっさとどこかへ行ってしまった。
和金が、
「やっぱり、お土佐姐さんって、なんか怖いよねぇ。おやつだって、楽しく食べている最中に、あんな事、わざわざ言いに来なくてもいいじゃないか」
と、ぶつくさ言った。それに対して、アタイは
どう弁明したらいいか、分からずに苦笑するしか無かった。
親の心子知らずとは、よく言ったもんだと思う。



ー蝶尾。
私は、子供の頃から、看護婦に憧れていた。
きっかけは、よくあるような、子供の怪我だった。
かけっこしている途中で転んで、腕を盛大に擦りむいた。
そんなに酷くはなかったけれども、何故か血は、驚くぐらいに沢山出てきて、小さかった私は、痛みよりも、怖さで泣いてしまった。
私は、このままいっぱい血が出続けて、死んでしまうんじゃないか、と恐ろしくなって、わんわん喚いた。
その時に、「大丈夫よ」と暖かく包み込むような、優しい声が、聞こえた。
声をかけてきたのは、綺麗な看護婦の人だった。
その人は、怯えている私を安心させるように、傍に座って、肩を寄せてきた。
「大丈夫だから、ね?」
その人は、持ってきた銀のトレーの上から、短く切った、清潔なガーゼを取り出し、慣れた手つきで、瓶の口から、消毒液を染み込ませた。
それを、銀のトレーと同じくらいピカピカなピンセットで挟むと、わたしの傷口の前に運ぶ。
「ちょっと染みるけど、我慢してね」
私は、歯を食いしばった。ちょっとどころではなかった。確かに、少しの傷なら、目の前の看護婦の言う通りちょっと染みる程度で済むだろうけど、血が出ている範囲は結構広かったし、子供だったので、痛みにはかなり敏感だった。
けれども、その人もそう言うしかなかったんだろう。怯えている私を、さらに怯えさせないように。
私は、ガーゼを傷口に当てられるほんの一瞬、燃えつくような痛みを感じた。
その痛みは、転んだ時と同じくらいに痛かった。
そのせいで、涙目になった私を見て、その看護婦は言った。
「ごめんね、でも偉い!よく頑張ったね」
私は、今度は自分が我慢していたことを知ってもらえた安堵のせいで、泣いてしまった。
その様な思い出があったから、私はそこらの子供と同じように、看護婦に憧れた。
他に特に褒められるような特技や、才能も無かったし、看護婦は、目指すのに、現実離れしたような職業ではない。
家は、貧しくても裕福でも無かったが、きちんと努力していけば、私でも看護婦になれる、というのは全くの夢ではなかった。
看護学校に通うのに、お金を出してくれた親には頭を下げたけれど、それは本当に、心から有難いと思ったからだし、むしろ親は、そんな私を誇らしいとさえ言いながら、送り出してくれた。
幼い頃の記憶に、両親の期待を乗せた私は、勉強や実技に明け暮れた。
そして、私はついに、夢の看護婦になったのだ。
看護婦になった私は、新品の真っ白な制服を着て、誇らしい気持ちで、病院へ務めた。
本当は、自分がうまくやっていけるか、不安に思う気持ちもあったけれど、そんな気持ちは、直ぐにかき消された。
私が居た病院は、まず院長の人柄が良く、他の医者や看護婦も、院長に習うようにして、患者に携わっていた。常に笑顔が絶えない、 夢のような職場で、働けることが嬉しかった。
ある日、私は入院患者の世話をするように、言いつけられた。
その人は、個室を与えられた、身寄りのないお爺さんだった。
病気か、それとも年のせいもあるのか、足腰が弱り、ほぼベッドの上で過ごしていた。
そのお爺さんは、いつも老眼鏡をかけて、本を読んでいるか、窓から見える景色をぼんやり眺めているだけ。
ゆっくり確実に、自分が死へと向かっているのは、自覚しているのか、ことある事に……
シーツを交換する度に、車椅子でお手洗いへと連れていく度に、一日三度の食事を、盆に乗せて持って来る度に、
「いずれ死ぬ老いぼれに、こんなにしてくれて済まないねぇ」と謝るように、言っていた。
私は、これが仕事でもあるし、気が弱っている患者を励ますように、二つの意味で、
「そんなことないですよ」と笑顔で言った。
もし、病気が回復したとしても、身を寄せられる家族も、戻る住まいもないお爺さんに、希望など残されていない。それを知っていても、私は、あの看護婦のように、優しくありたいと思い、特にこの人を気にかけた。
勿論、他の患者や残った仕事を蔑ろにしないように、時間が許す限り、なるべくこの人の傍にいようと思ったのだ。
けれども、私のそんな気持ちも虚しく、その人は私と初めてあった時から、三ヶ月でその世を去ってしまった。死因は、病気のせいかは、はっきり分からなかった。けれども、老衰で死んだとしても、おかしくない年だった。
どちらにしても、私は、この人が最期の時に、苦しい思いをせずに、あの世に逝けたのなら、良かったな、と思っていた。
私は、看護婦になれば、人の死にいちいち感情を持っていかれては、自分の身が持たないと分かっていた。それは、学校を卒業する時にも、言われた。
けれども、泣き出さずには、居られなかった。
他の患者さんの傍にいる時には、自然と涙を堪えられるというのに、一人になると、何故だが涙を止めるのに、苦労した。
一人ぼっちで、死んでしまったお爺さん。あの人は、一人病室で過ごしている間に、一体何を感じながら、生きていたのだろうか。
あの人自身は、自分の人生に満足しながら、逝ったのかもしれない。私が思っているのは、かえってそんなお爺さんの気持ちを踏みにじるような、哀れみの気持ちだったかもしれない。そう思っても、涙は止まってくれなかった。

ある日、ほんの気まぐれに誰かが言いだしたのだろうか、最近死んだ、あの孤独なお爺さんは、誰かによって、殺されたんじゃないか、と。
そんな噂が、病院中に流れた。
医者や看護婦は、最初、患者のそう言う戯言に耳を貸さなかった。それどころか、そんな風に確定していない事象をベラベラを話すのは、良くないとやんわり注意した。それでも、風評が止まずに、院長まで出てきて、その様な根も葉もない噂話を振り撒くのは、止めて頂きたい、と強く行った。
院長の一声に、最初は皆素直に従っていたが、時が経つにつれ、また噂を流し始めた。
そして、患者の一人から、こういう声が上がった。
「そういえば、新しく入った看護婦の人が、やたらとあの爺さんに付きっきりでいた」
それから、病院内は私が、あのお爺さんを殺したんじゃないか、という話題で持ち切りだった。
それから、患者は私が近づいて、今日の様子はどうですかと聞こうとしただけで、恐ろしいものから逃げるようにして、さっと離れる。
廊下を歩いているだけで、私は、殺人犯を見る目付きで、見られた。
そういう中でも、私は精一杯仕事をしようとしたが、先輩や同僚の中にも、もしやと勘ぐるものも出てきた。
私はもう、辛抱たまらなくなって、院長に言った。
「私は、殺してなんて、いません!憧れてこの仕事に入ったのに、そんな恐ろしいこと、出来ません」
院長は、君のそう言いたい気持ちは分かる、と言ったけれども、私が殺したという証拠も無ければ、殺していないという証拠も無い。 というような、説明をした。
そもそも、殺すなんてことをしていないのだから、証拠も何も無いのだが、今の社会では、仮にやったという証拠を探すより、やらなかった証拠を示す方が、難しい。
私は、信じていたものに、何もかにも、裏切られた。
あの、優しい眼差しを向けてくれた看護婦から、憧れた仕事に、良い人達だと思っていた院長や、仕事仲間に、今まで精一杯看護や世話をしてきた患者たちに。
しかも、その噂は、病院内から漏れだし、私の住む近所まで、流れ出ていた。
暗い気持ちで家に帰ると、玄関の戸に、
「人殺し、快楽殺人者、看護婦の皮を被った鬼」
など、目を背けたくなるような、悪辣な文章の張り紙が貼ってあった。
私は、その嘘の事実が書かれた紙を見るなり、叫んで、全てをぐしゃぐしゃにした。
そのせいで、次第に、気持ちが落ち着いてくると、今の私の有様を見ていた主婦達が、ひそひそと話してくるのが聞こえた。
「ねぇ、今の見た?怖いわねぇ。」
「ほらね、あの人の本性は、あんな感じなのよ」
「あんな人が近くに住んでいるなんて、恐ろしい。ウチには子供もいるのに」
その主婦達は、まるで私の罪がばれたから、怒り狂っているんだ、という口ぶりで、話していた。
私は、何をやっても、もう駄目なんだ、と感じた。
今までだって、散々私はそんな事をしていない、と説明してきたけれども、必死にやっているというのが、裏目に出ていた。
誰も彼も、私が人を殺したという事実を、そんな事をやっていない、と認めていない、というふうに感じているのだ。
だから、誰も信じてくれない。
私の言葉よりも、根も葉もない噂話と、確かめもしない、自分の心の考えを硬く信じ込んでいた。
私は、もう全てが嫌になって、駆け出した。
もう全部全部、どうでもいい。
どこまでも、どこまでも、駆けた。
考え無しに行き着いたのが、寂れた田舎の駅だった。
見ると、これから一時間に一本の、まだ珍しい電車が来るところだった。
私は、それに轢かれれば、楽にあの世に逝けるだろうか、と考えていた。
あの、お爺さんの魂がいるはずの、あの世へ。
でも、死ぬのなら、極楽なんかに逝きたくはない。
逝けばきっと、あのお爺さんにも会う。
そうしたら、私はきっと、あんたのせいで人生がめちゃくちゃになったんだ、と糾弾するだろう。
いや、そもそもそんな事を考えるやつが、極楽に逝けるのだろうか、あぁ、でも……。
私は、もう全部どうでもいいや、とぼうっとした頭で、駅のホームに立っていた。
そして、声をかけられるまで隣に、男性が居ることに、気が付かなかった。
「どうかされましたか」
見ると身なりがよく、凛とした佇まいの男性が立っていて、落ちついたトーンの声をかけてきた。
私は、どう答えたらいいか分からず、黙っていた。
男は、電車に乗る風でもない、それどころか今にも電車に飛び降りそうな目付きをしている私に、
「まぁ、座りませんか」
と言って、駅のベンチに座るように、示した。
私は、その人に一体何があったのか、話してくれやんしませんか、と言われ、何故だがすらすらと、話してしまっていた。
口が勝手に、今まで抱えてきた思いを発散するように、かなり長い時間話した。
途中に、私の死因となるはずだった列車が通り過ぎていったけれど、それは私にとってもう、雲が通り過ぎるぐらい、どうでもいい事だった。
その人は、私が話終えるまで、何も言わずに相槌だかを打ち、静かに聞いてくれた。
そうして、その人は、手を差し出して、私にこういった。
「私の屋敷に来てください。新しい仕事と、名前と、それから居場所を差し上げましょう」と。
私は、信じらない気持ちであったけれど、その人の目が嘘を言っていない、と分かったので、着いて行った。
それで、その人の言う通り、「蝶尾」という、新しい名前を貰った私は、この屋敷にやってくる子達の、健康状態を観察し、その子達が健やかに暮らせるように、世話と工夫を任された。
具合の悪い子がいたら、呼ぶ時に、ひと目で私だと分かるように、大きくて、立派な蝶のような帯を占めて、私は仕事にあたっている。
これも、旦那様から貰ったものだ。
外国製の上等な、ふわふわとした布で出来ていて、名前は確か、オーガンジー、と言うらしい。
その、蝶のようにも、金魚の鰭のようにも見える鮮やかで美しい帯が、今の私の仕事着の一部だった。
今日も、私は誰かに呼ばれて、あたりを駆け回る。まるで、蝶が飛ぶように、金魚が泳ぐようにして、私はその元に駆けつける。
旦那様は、この着物と帯を渡す時、こう言った。
「もう誰も、君に嘘をついたり、陥れたりしない。」
私は、それだけを信じて、生きている。他の何も、もう信じられなくていい。この世でただ一つ、私を救い上げてくれた、その人の言葉があれば私は、どんな目にあおうと、何だってするつもりだ。


ー獅子頭(ししがしら)。

獅子頭と、呼ばれる前の、少女の世界には、言葉が無かった。
他人が、自分に向かって、何かを言っていても、よく聞き取れなかったし、その意味もよく分からなかった。
それに、自分の話す言葉も、言葉としての体裁を保てず、獣の鳴き声のような、獅子が出す唸り声のようなものしか、発せなかった。
両親は、五つになっても、満足に喋れず、言葉をかけても、はっきりとした反応を返さない少女を、不気味がって捨てた。
けれども、それで死ぬことがなかったのは、優しい顔をしたおじさんに拾われたからだ。
その人は、最初、おじさんの仕事を手伝ってくれないかい、と言って少女の手を握って、連れ去った。連れ去られた先で、少女は、暖かい寝床と、食べ物を与えられた。
最初は、そうやって暖かく出迎えられたが、世話をしているうちに、少女が喋れず、耳もよく聞こえていない事が分かると、だんだんと扱いが粗雑になっていった。
「全く、こんな風体の娘じゃ、夜の客は取れねぇな。見世物にするしかねぇ」
少女は、暖かいおじさんの部屋から出され、猛獣をつなぐような、檻の中に入れられた。
「いいか、お前は犬か虎から生まれた人間だって触れ込みで、芸をするんだ。そんな出来損ないで生まれても、金をとれようにした、このオレに感謝することだな。」
おじさんは、そう言ったけれど、少女の耳には、もやもやとした霧がかかったように、聞き取れなかった。分かったとしても、その意味もわからなかったが。
少女は、檻の中で寒さに震えた。食事も、前ほど立派なものではなく、野良犬が食べるような、残飯の寄せ集めのようなものを出された。
何故いきなりこの場所に移されたのか、少女には分からない。分からないから、どうして私はここに居るの、寒い、前の暖かいところに戻りたい、と訴えたけれど、おじさん達の耳には、寂しい犬の遠吠えのような、子犬の夜鳴きのようにしか、聞こえなかった。
「うるせぇ!静かにしやがれ!この畜生めが!」
少女は、理不尽にぶたれた。
何回かそういう事があって、やがて五月蝿くすると酷く痛めつけられるということを学び、寒くてもひもじくても、我慢することにした。
お腹が減っても、震えるほど寒くても、おじさん達にぶたれるよりは、マシだったからだ。
食事も、吐き出したくなるような酷い味だったが、飢えた本能がそれを上書きし、米粒ひとつ残さず食べていた。
ある日いきなり、暗くて寒い檻の中から、出された。少女は、やっと前の暖かい場所へ戻れると、思ったが、実際は、とても明るい光が当たる広いところへ、連れ出されただけだった。
少女の首には、猛獣を繋ぐような、首輪が嵌められ、そこから伸びた鎖は、あのおじさんが握っていた。少女には、虎柄の襤褸皮があてがわれた。
少女は、それが何だか嫌な匂いをするものを体につけられたと感じたが、嫌がったら、またぶたれるも思って、大人しく従った。
おじさんは、前に見たような服ではなく、黒くてつやつやとした燕尾服で、おめかしをしていた。
少女の目の前には、たくさんの人が階段上になったところに座って、少女を見ていた。
「さぁ、今宵お集まりの皆様方、大変長らくお待たせいたしました。本日の目玉、大陸からやってきた、人虎一族の末裔、虎から生まれた人間の娘でございます」
おじさんのその一言で、目の前の人達は、いきなりワーッと大声を上げた。
少女は、それにビックリして、おじさんの後ろに、臆病な犬のように、隠れてしまった。
「やや、皆様申し訳ありません。どうか、お静かに願います。なにぶんこの娘は、密林の中で、母虎と静かに暮らしていたのです。ですから、大きな音には、慣れていませんので、このように驚いてしまいます。」
少女は、おじさんの足の間から、そうっと人間達を覗き込んだ。
その、驚いた動物が、安心出来る飼い主の背後に隠れるような、本当にやりそうな仕草に、また観客達は、活気づいた。
それを指揮者のように、手で制し、おじさんは声をはりあげた。
「だれか、優しいお坊ちゃんか、お嬢さんはおられませんか?もしおられたら、どうかこの可哀想な虎娘に、おやつを与えてやってください。そうすれば、元気が出て、安心し、芸をしてくれるでしょう」
そのおじさんの声に、威勢のいい声とともに席にいた子供たちが手を挙げた。
中には、母親にあんな得体の知れないものに、近づいてはいけません、というように、無理やり手を下げられた子もいた。
「ふむふむ、どうやらたくさんいらっしゃる様ですね。ですが、どうかお坊ちゃん一人、お嬢さん一人でお願いしたいのです。……そうでしたら、そこの緑の服のボクちゃん。それから、青いドレスが素敵な、お嬢さん。あなた達にお願いしましょう」
おじさんは、こう言いながら目当ての子を指さしして決めた。その子達は二人とも身なりがよく、連れ添ってきた親も、ひと目で高価だと分かる服を着ていた。
おじさんは、それが分かって、わざわざこの二人を指名したのだ。
二人は、それぞれ親と隣に座った先を離れて、緩やかな階段を降り、少女の近くまで寄ってきた。
少し緊張して、不安な顔の二人に、おじさんの仲間……派手な姿の団員が、一人ずつ付き添った。
「私の言う通りにしていただければ、安全です。さ、このクラッカーを、静かにそっと虎娘に渡してあげてください」
二人の子供は、素直におじさんの言うことを信じ、渡されたクラッカーを、少女の前へ差し出した。
二人とも、目の前の少女は、自分と同じくらいの人間の女の子ではなく、人間と比べると劣る、未開の土地の、虎の血が混ざった野蛮な生き物だと、本気で信じていた。自分たちは、親に守られ愛されて暮らしているが、目の前の少女が、まさか虐待されながら虎娘の振りをしなければ、生きられない悲しい少女だとは、思いもしなかった。
けれども、 子供の残酷でもあり、純粋な思い込みを使用したこの商売をやることでしか、生きられない者もいるのが、事実であった。
少女は、差し出されたクラッカーに、鼻を近づけて、ふんふんと嗅いだ。
その、人に馴らされかけている獣が、本当にやるような仕草に、観客は静かなどよめきを上げたが、おじさんの……団長の、唇に指を当て、しーっとされた動きで、すぐに口を閉じ、静かになった。
少女は、初めに青いドレスの女の子が持っているクラッカーに興味を示し、唇で端掴むと、人間を信じられていない犬が、獲物を持ち去るようにして、離れたところで、それを食べた。
女の子は、少し怖がったが、自分が、危険な猛獣に、 初めて餌を与えた人間のような気持ちになって、自信満々に、親が待つ席へと戻った。
「ありがとう、お嬢さん。きっとこの虎娘も、心のなかでお礼を言っていますよ」
団長は、心にも思ってない事を、さも当然のように、ベラベラと発した。
「さ、次は貴方ですよ、坊ちゃん。大丈夫、勇気を持って」
緑の服の男の子は、少し怖気付いたようで、へっぴり腰になりながら、少女に向かって、クラッカーを差し出した。
少女は、また鼻を近づけて、目の前のこれがなんなのか、確かめた。
さっきと、全く同じ匂いがする。
この匂いがするものを食べたら、とっても美味しかった。今度も、きっと逃げないに違いない、ならば……。
少女は、飛ぶ鳥を狙う猫のように、勢いよく、いい匂いがする、それ、にかぶりついた。
そのせいで、男の子の手まで噛みつかれ、男の子は大声を出して、パニックになった。
男の子の母親は、青ざめた顔で、悲鳴を出しながら、我が子の元に駆けつける。
観客達も、騒然となった。周りの騒ぐ声に驚いた少女は、直ぐに口を離して、物陰に隠れようとしたが、団長が握っている鎖が、それを許さなかった。
少女の牙から逃れられた男の子は、手を抑えて泣き出しながら、母親の胸の中に、抱きとめられた。
親子は、直ぐに見世物のテントから出ていった。
「も、申し訳ありません。ただ今不慮の事故がございまして……。私共の不注意でございます。全く、面目ない」
言いながら、団長は、力いっぱい鎖を手繰り寄せると、引っ張られてやってきた少女の頭を無理やり押し付けて、自分も深々と頭を下げた。
「皆様、これでこの演目は危険だと、どうか早合点致しませんように、何分この娘は今日が初めてのショーでして、このような場に慣れていないのです。それで、あのような恐ろしい振る舞いをやらかしてしまったのです。どうか御容赦を」
団長は、丁寧な言葉で、まくし立ててるようにして謝るが、心の中は、侮蔑で埋まっていた。
観客の熱気が上がったところで、どうして、いきなりあんな醜態をやらかしたこの愚図、あの小僧も大袈裟に騒ぎすぎだ。野良犬に噛まれたわけでもあるまいに、甘やかして育てた母親のせいで、他の観客が興醒めしてしまったではないか、などと。
団長の思った通り、他の観客達は、半分興味が尽きて、残りの半分はこんな恐ろしい見世物は、見ていられない、というような、顔つきで皆テントを後にした。
団長や他の団員は、お楽しみはこれからです、どうかどうか、席にお戻りください、と言い続けだが、全くなんの意味もなかった。
観客が全員いなくなって、静まり返ったテントの中で、団長の怒号が響いた。
「この野郎!今日の出し物を台無しにしやがって!てめぇは、このオレに恩があるって分かってやっていやがるのか!」
それから、少女は団長に、酷い暴力を受けた。
怖気付いた他の団員が、止めるまで、それは止まなかった。
「おやっさん、そ、それ以上殴ったら、そいつ、きっと死んじまいますよ……」
団長は、静止する声を上げた団員を、ごろつきのように睨みつけた。
「けっ、こんなやつ死んじまったとして、どうせ罪には問われねーよ。目が節穴のお巡りは、ここまでやってこれねぇ、世間様には、分かるはずもねぇ。」
そう言いながらも、少女を痛めつけるのに飽きたのか、団長は団員に少女を元の檻に戻すように言い付けて、自分は強い酒を飲んで、自室へと戻った。
少女は、冷たい檻の中で、傷ついた野生動物がそうするように、傷を舐め、なるべく動かないようにして、痛む体を横にした。
動物であっても、体を癒すには、ずっと寝続けて体力を貯め、傷が自然と治るまで待つ。
けれども、この檻の中はかなり寒く、それだけで体温をかなり奪われる。ひいては、どんどんと体力までも奪われて、傷が治るどころでは無かった。
少女は、このまま死んでも、おかしくなかった。
きっと、目を閉じてしまったら、そのまま起きる事は……もう二度と、目を開ける事は、叶わないだろう。
けれども、少女は死が優しく呼んでいるような、
微睡みに耐えられず、瞼を閉じてしまった。
自分は、もう死ぬんだな、と静かに思った。

少女が、どういうわけだか目を覚ました時、黒づくめの男の膝で、寝こけていた。
少女が、寝ていた膝の主は黒い格好をしてるので、おじさんの仲間だと思って、身構えた。
少女が今いる場所は、狭い箱の中のようで、訳が分からないくらい揺れる。それも、少し怖い。
見ると、反対側にも黒い格好の女がいるのが、分かった。少女は、いきなり得体の知れない二人と一緒に、この揺れる謎の箱の中に居たのだ。
少女は、二人に向かって、犬のような唸り声を上げ、威嚇した。
そうしないと、自分が弱っているところを見せたら、またぶたれると思ったからだ。
「大丈夫、私たち二人は、あなたに、何も危害を加えたり、しません」
女の方が、自分に何やら言っているように聞こえた。けれども、それが何を意味するのか分からない。女は、男と一言二言会話をしたように見えた。
「旦那様、やはりこの子は、耳が聞こえずらいようです」
「そうか、ではまず私たちが危険ではないと、態度で示さないと、安心できないだろうな」
それから、二人はまるで少女が、そこら辺にいる野鳥と同じような感じで、気にはしないが、そこにあるのが当たり前のように、放っておいた。
少女の方も、最初は敵意を剥き出しにしていたが、
二人が何もしようとしない、のを認めると、警戒を和らげた。それに、まだ少し眠かったので、猫のように背中を丸めて、寝る事にした。
「あの主人が、金にがめついやつで、助かった。あのまま放っておいたら、この子は死んでいるところだった」
「本当に、そうでございますね。あんな酷い状態のところで、良く生きのびていたものです……」
この二人なら、寝ている間も、起きている自分にも何もしなかった。なら、また眠っても同じ事だろう。
少女は、傷がさっきほど痛まないことに気づいたが、それがどうしてかは、分からなかった。
分からなかったけれど、体中にある傷口全てに、白い布が貼られていたり、巻かれていたりいた。
それらは、特に不愉快に感じなかったので、気にせずに、目を閉じた。
勿論、このような状態は初めてなので、いつ何が起きてもいいように、危険に備えて、野生動物のように、浅い眠りだった。
少女は、今までの生活のせいで、獣の本能のような、性質を強めていた。
少女が、二度目に起きた時には、全く知らない場所であった。
そこで、黒い女に連れられて、白い床の場所に案内された。
女は、少女の着ていた虎の襤褸皮に手をかけて、剥ぎ取ろうとした。少女は、何かされると思って、女の手に、爪を立てた。
女は、短い悲鳴を上げて、驚いた様子で、少女から少し離れた。
今まで、なにか痛い事をされたら、そうやって相手を攻撃することで、防いできた。
おじさん達のような、自分より強い相手には、服従するしかなかったけれど。
女の腕からは、爪痕から血がさらさらと流れている。女は、服の中から白く細長い布を取り出し、傷跡の上にそれを巻いて、結んだ。
少女は、女がさっきの白い布で同じように、自分の怪我を処置くれたのか、とようやく気づいた。
それで、警戒心が少し、和らいだ。
それから、女は自分の体に別の布を擦り当てる振りをして、少女の方へ指をさした。
少女は、それで今のような動きを少女の体で行う、のだと、合点がいき、大人しくなった。
女は……黒出目は、最初、少女を驚かしてしまった事を申し訳なく感じた。
自分が怪我をしてしまったけれど、こんなもの、どうということはない。それより、少女は何か嫌なことをされるたびに、こうやって凌いできたのだろうか。自分に刃を向けたのは、つまりそれほど恐ろしかったのだろう。
少女は、傷があるから、今は風呂に入れない。せめて体を吹かせてくれないだろうか、と仕草で示した。少女も、それを分かったようで、大人しくなってくれた。
黒出目は、暖かい温度のお湯に、手ぬぐいをつけてから、少女の身体を吹いた。傷口に触れないように、気をつけながら。
少女は、気持ちよさそうに、目を閉じた。
体の大まかな汚れが取れてから、黒出目は、少女の体に、新しい服を着せた。
少女は、その間も暴れずに、大人しく着せられていた。
「やぁ、黒出目。大丈夫だったかい」
黒出目は、少女を着替えさせたあと、別室に案内し、自分は旦那様の元へと向かった。
「はい、今あの子を寝床に案内しました。最初は、教えても床の上で寝始めてしまったので、どうしたものかと思ったのですが、何回か教えると、ようやくベッドの上で寝てくれました。慣れない様子でしたが、かなり疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてきましたよ」
「そうか、ご苦労さま」
「夜中見回る時に、落ちていないと良いのですが」
黒出目が冗談めかして言ったのに、旦那様は少し笑った。
「黒出目の言うことが分かる、という事は、知能には問題ないようだ。やはり、耳が聞こえづらいだけで、今まで誰にも言葉を教わっていないのだろうか」
「私も、そうかと思われます。どちらにしても、傷が多いので、様子見は必要かと」
「あぁ、すまないね黒出目。私の代わりに、よくあの子を見ていてくれ。」
「旦那様は、お忙しいのですから、私の事はお気になさらずに。心得ております 」
「ああ、あの子の事で、なにか分かったら、すぐ私に教えてくれ」
「畏まりました」

少女が、暴力を受けて、寝静まった後。少女の主人である、団長の元に、黒出目を連れた旦那様がやってきた。
旦那様は、酒を飲んで、かなり酩酊している男に、凛と言い放った。
「お金は幾らでも払いますから、先程のショーに出ていたあの子を譲ってください」
「あぁ?……アンタァあんなやつを拾ったってねぇ、ろくに役に立てねぇよ。……それとも、そういうのを相手にやるのが、趣味なのかぁ?」
団長の、下品な物言いと笑い声に、黒出目は険しい顔をした。
「なんでもいいのです、あの子を私にください」
そう言って、団長の目の前に、金がたくさん入った袋を出した。
団長は、にやにや笑って、それを受け取った。
さっきの少女は、寒い檻の中に入れられて、息も絶え絶えに、寝息をたてていた。見ると、身体中に無数の傷がある。
旦那様は、すぐさま少女を抱き上げて、馬車に連れ込んだ。そこで、黒出目に傷の応急手当をさせた。
それで、この屋敷まで運んできたのだ
「噂で、かなり下品な見世物をするところがあると聞いて行ってみたら、想像以上だったな」
「はい……」
あのショーの観客席には、旦那様と黒出目が居た。
虎の血が混ざった少女が居る、と聞いたので入ってみると、そこで少女が、かなり酷い扱いを受けていた。それを救わなければ、という思いに駆られたのだ。
「すまない、君には嫌なことを思い出させたな」
「いいえ、自分から着いていくと、言い出したのですから。あの事はもう、過去の事です。それに、あの子の命が救われたのなら、それが一番嬉しいですわ」
黒出目は、それだけ言うと、旦那様の部屋をあとにした。
後日、傷の状態が良くなってから、少女は旦那様の元に呼ばれ、新しい名前と、服を与えられた。
「獅子頭」という名と、それに相応しいような、獅子の鬣のような、赤い毛皮の襟巻の着いた服だった。
元気になった獅子頭は、黒出目から、まずは声の発声練習を受け、平仮名を覚え、子供が学ぶような簡単な知識から学んでいった。次第に、簡単な手話を覚えるようになると、周りのものが一体何を伝えたいのか、分かるようになった。
獅子頭の世界は、広がった。それもこれも、旦那様が拾ってくれたおかげだ。
耳は、蝶尾が飲み続けなさいと与えた薬のおかげで、大体の音が聞き取れるようになる程、良くなって来たけれども、声だけはなかなか思うように、発せなかった。それでも、旦那様は咎めなかった。
「良いんだよ、獅子頭。例え、お前が一生話せないままだとしても、お前が生きていてくれるだけで、私は嬉しいんだ」
旦那様は、そう言って頭を撫でてくれた。昔は、頭に手を添えられるだけで、殴られる、と身構えていたが、今ではこれは褒められている事を意味する行為だと言うことが分かり、獅子頭はこれをされるのが、大好きになっていた。
旦那様に撫でられる時は、いつでも優しい飼い主に甘えられる幸せな犬のような、心地よい表情をした。旦那様は、喋れまくても、ここに居ていいと、言ってくれた。獅子頭もその気持ちは嬉しかったのだけれど、やはり、一言だけでもいいから、旦那様に伝えたかった。心の底から、
「ありがとう」と。

ー玉真珠。
わたしは、ずっとくらいせかいで、いきていた。
いえのなかは、いつもきたなくて、きれいにしてもすぐにちらかっていった。
おとうさんは、いえのなかを、こんなうまごやみたいな、ありさまにするんじゃないといって、わたしぶった。
わたしが、ごめんなさい、とあやまっても、さらにぶたれた。
おかあさんに、ほっぺがいたいことと、おとうさんに、ぶたれたことをいったら、それはあんたがわるいんだ、っていわれた。
わたしは、そうなんだっておもうしかなかった。
わたしが、わるいからこんなふうにぶたれたり、おかあさんも、ごはんをあまりくれないのは、そのせいなんだって。
ほかのこたちは、わたしをおばけでもみるようなめをして、さけていった。
おとなのひとたちは、わたしのほうをゆびさして、ひそひそごえで、いった。
ほら、あそこのこ、へんなかみのいろでしょ、
あのかみ、せいようじんのちが、まざってるんですって、
じゃあ、やっぱり、あそこのおくさん、まえに……。
わたしは、そのひとたちのはなしているいみが、よくわからなかったけど、それでもなんだか、いやなことをはなしている、とかんじていた。
おとうさんに、またおこられないように、ひとりでがんばって、おそうじしようとおもったけれど、ねていたおとうさんを、おこしてしまって、またぶたれた。
こんどは、まえよりもいっぱいぶたれて、なぐられた。おかあさんに、たすけてっていったけれども、おかあさんは、なにもきこえてないようだった。
わたしが、しずかにやらなかったのがわるいんだ、だから、しょうがない。
ごめんなさい、おとうさん、といったら、おとうさんは、おまえは、おれのこなんかじゃない、ガイジンのちがまざっている、いやしいこだって、いった。
わたしは、そのいみがよくわからなかった。
そのあとで、おかあさんに、きいたら、わたしはいきなり、くびをしめられてしまった。
おかあさんは、なきながら、あんたなんか、うむんじゃなかった、といった。
おかあさんのなみだが、わたしのかおに、おちてきた。
ああ、ごめんなさい、おかあさん、なかないで、もうこんなこと、ぜったいきかないから。
つぎのひになって、わたしがおきると、いえのなかにおかあさんの、すがたはなかった。
わたしが、おとうさんに、おかあさんはどこへいったの、ときいた。
おとうさんは、ずっとむずかしいかおをして、だまっていたから、わたしはまたぶたれるとおもってこわかったけれど、そのときは、おれは、もうしらねぇっていっただけで、おとうさんもどこかへいってしまった。
おとうさんの、そのさいごのことばは、わたしのほうをみもしないで、いった。
わたしは、おとうさんとおかあさんを、さがすしかなかった。
だって、いえにはごみしかなくて、おなかがすいて、しにそうだったから。
そのひはあつくて、わたしは、ひあがってしまいそうだった。
おとうさんたちが、どこへいったのかさっぱりわからなくて、あつくてくらくらするなかを、わたしはあるいた。
あるいて、あるいて、あるいたけれども、おとうさんも、おかあさんも、みつからなかった。
わたしは、つまづいて、みちにたおれこんでしまった。おきあがろうとしても、もううでにちからもはいらない。
あたまも、めのまえもぼぅっとして、すべてがとおいところでおこった、できごとみたいにかんじた。
そのとき、わたしはなんとなくだけど、もうこのまましぬんだと、わかった。
しぬってことは、まだよくわからなかったから、こわくはなかったけれど、もういまみたいな、おなががすいて、あつくてくらくらして、そして……さみしいのは、もういやだなって、おもった。
きずいたら、わたしのかおをだれかが、のぞきこんでいた。
そのひとのかおは、もうめがぼんやりして、よくわからなかったけど、そのめが、とてもやさしそうで、わたしは、かみさまだったら、きっとこんなふうな、めをしていふんだろうな、とおもった。
そのひとは、わたしをだきあげて、どこかへつれていこうとした。
わたしは、もうたえられなくて、めをとじてしまった。

その人の手は、とても暖かかった。
私を助けてくれた人は、神さまみたいな、人だった。
私は、この屋敷に来たばかりの頃の記憶を、全然思い出せない。昔の事も、途切れ途切れにしか覚えていない。思い出そうとしても、すごく悲しいことがあった、そんな漠然としか、感じられない。
蝶尾姐さんは、あんまりにも辛い事があると、人は心を閉ざして、自分が傷つかないように、守るために何もかにも、感じられなくなってしまう事がある、と教えてくれた。
思い出すと、自分の心が壊れてしまうから、嫌な記憶に、自分自身で枷を嵌める事がある、という事も。
でも、あの日私を救ってくれた人の優しい目と、暖かい手の感触ははっきりと覚えている。
それに、私は今こうやって生きている。
どんな過去であったとしても、その過去を思い出して、死んでしまいたくなったとしても、人は今にしか生きられない。
今が辛くて、未来に希望を残すように、この世に踏みとどまっても、同じ事だ。
過去がどうであったとしても、今の私は、素晴らしい人の元で、暮している。
その事実は、絶対に変わらない。
たまに、酷い物忘れをしたり、ぼうっとして柱や戸にぶつかってしまうこともあるけれど、誰もが注意するだけで、酷い言葉で、私を問い詰めたりしない。
たまに和金には、呆れられているけれど……。
それも、和金なりの心配だっていうのが、分かっている。
この前、旦那様が新しい子を連れてきた。
ぼろぼろな姿の、可哀想なその子を見ていると、なんだか頭の隅のほうが傷んで、何か嫌な事を思い出しそうになった。
けど、私がいないうちに、その子の意識が戻って、今和金が、お風呂に連れていってあげているらしい。
屋敷に戻ったばかりの私に、旦那様から
「君の服の寸法が、あの子に一番合うだろうから、あの子の服が新しく出来上がるまで、悪いが貸してあげてはくれないだろうか。」
と言われたので、すぐにでも部屋に戻って、箪笥から、一番着やすい服を取り出して、渡しにいかなければ。
何か忘れていなければ、いいのだけれど。
部屋を出る前、一瞬そう考えたけれども、それでも構わないと思って、部屋を飛び出した。
気をつけてないせいで、おかげで戸にぶつかった。
私が何回確認しても、忘れ物をする時がある。
でも今は風呂場に和金もいるはずだから、確認してもらえばいい。足りない物があったら、また部屋に戻って取ってくればいい。
和金には、また呆れられるだろうけど、新しく来た子に、一刻でも早く服を、手渡したかった。
ベットで、ずっと寝ていたあの子に、何故だか私は昔の自分自身と重なるところがある、と感じていた。
だから、こんな自分でも何かの役に立ちたいと、ベッドの上で苦しそうに横たわるあの子を見る度に、そう思っていた。
玉真珠は、逸る思いで風呂場へと向かっていった。

ー小噺。和金と、出目金。
今日の和金は、むくれた顔で、顎を机の上に乗せ、猫のようにだらしなく垂れていた。
この屋敷にやってきた和金は、両親からろくに何も教わっていない。
最近になって、屋敷の生活に慣れてきた頃、黒出目が簡単な読み書きを覚えましょうと言って、教えてくれるようになったのだけれど、和金はそれが少し憂鬱だった。
黒出目に、色々と教えられるうちに、自分のものの知らなさに愕然として、子供ながらに、無知な自分が恥ずかしくなった。
黒出目も誰も、お前は馬鹿だと言って、笑ったりはしなかったけれど、そう思われているかもしれない、と思う自分が、余計に惨めな気持ちにさせた。
和金が、今いる教室として使っている、(本当は共同で雑用など行う)部屋に、黒出目が入ってきた。
「さ、今日は平仮名の続きから、始めましょう。昨日のやったところ、覚えているかしら?」
和金は、自分が物覚えが悪く、駄目な生徒だと思っていた。
本当なら、物覚えがつく三歳頃から、子供は両親と接する中で、簡単な言葉から、徐々に覚えだし、7歳歳になる頃には、平仮名を全て覚えているような子もいる。
けれども、和金はそれを望めるような環境で暮らしていなかった為、少しでもその間を狭めようと、黒出目も少し焦って、授業を進めていた。
本当なら、数年間で徐々に学ぶことを、数ヶ月で一気に覚えようとしているのだ。三つ教わって、そのうち一つを覚えるのに、残り二つを忘れてしまう、和金の、そんな頭の中の状況も、当たり前であった。
それに、和金は誰かにものを教わるという事が初めてなので、まだ言っていることが何を意味しているのか、それを理解しながら話を聞いていくことが、精一杯のようだった。
「ねぇ、読み書きなんか出来なくても、アタシはこれまで生きてこれたのに、どうしてこんな、大変な思いしてまで、ベンキョーしなくちゃいけないの?」
子供によくある、勉強する嫌な気持ちに、どうしてこんな事をするのか、こんな事を学んでなにか意味があるのか、という一見真っ当にみえる質問を上乗せした言葉に、黒出目は困ったような、顔をした。
これぐらいの年の子に、正論を説いたとしても、反発して、もう二度と勉強などしない、と駄々をこねられるのが、関の山だ。
「そうねぇ、でも、平仮名を全部覚えられたら、絵本ぐらいは、読めるようになるわよ」
黒出目は、いくら子供でも、相手を唆すような、もので釣るような、この言い方は良くないのではないか、と思ったが
「じゃあ、それって、あの狐の子のお話も一人で、すらすら読めるようになるって事?」
以外にも、和金はこの話に食いついてきた。
「狐の子のお話?それは、いっぱいあるけど、和金が見たのは、一体どんなお話だったのかしら?」
「えっとね、ここに来る前、隣の家の子が、読んでくれたんだけど……」
和金の、記憶を遡るような、少したどたどしい説明に、最初は一体なんだろうと戸惑ったが、最後に狐の子が、誤解のせいで男に撃たれてしまう、というのを聞いた途端に、黒出目はそれが、「ごんぎつね」の話であると、突き止めた。
「えぇ、それも平仮名を覚えたら、簡単に読めるようになるわよ」
「そっか、じゃあアタシ頑張る!」
子供だから、少し単純なのかもしれないが、勉強に意欲的になったのは、望ましい事だ。黒出目はそれを表に出さず、教本を広げた。
「じゃあ、さっき言ったみたいに、昨日の続きからね……」
そこまで言って、ふと和金の目が、自分の手元を見つめているのに、気がついた。なんだろう、と思って自分も手元を見つめると、そこには旦那様から頂いた、いつもしている目玉があった。
あぁ、これかと黒出目は感じながらも、子供にとってこれは少し不気味に映るかもしれない、と思い至った。けれども、これを外せば和金にものを教える事など、出来やしない。
もし和金が、これを怖がって、また勉強をしたくないと言い出しても、ここはひとつ我慢してもらうしかない。
「ねぇ、黒出目さんって、いっつも目を隠しているのに、どうして何にもぶつからずに、歩くことができるの?それに、その指にある目玉はなぁに?」
どんな子供でも、知的好奇心はあるらしい。
和金は単純な興味を抱いていただけだと知って、内心安堵し、黒出目は、少し大袈裟に、冗談めかして言った。
「この目玉はね、旦那様から頂いたものなの。これを付けていると、その子が悪い事をしたかどうか、分かる不思議な目玉なのよ」
「……悪いことをした子だって、分かったら、どうするの?」
黒出目の嘘を信じ込んだ様子の和金は、恐る恐る聞いた。
「ふふ、悪い子だって分かったらね、怖いこわーいお化けに、ここに悪い子がいるって教えて、とってもこわーいお化けの国に、連れていってくださいって頼むのよ」
和金は、瞬時に縮こまった。
「さ、だからおっかないお化けに連れていかれないように、真面目にお勉強しましょう」
「……はい」
そうして、今日の授業は始まった。

和金が、読み方に苦労しながらも、文章をなんとか解読しようと、頑張っている中、黒出目は思った。
和金が、全て平仮名を覚え、すらすらと読めるようになったら、その時は旦那様にご褒美として、
「ごんぎつね」の本を下さるように、お願いしなければ、と。

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